ユキスナの歴史散歩

戦国史跡巡りが好きで色々な場所を訪れては写真を撮ったりしています。その中で面白い事や場所やお土産とか気がついたことを記事にしていきたいと思います。歴史散歩の中ではカエルとして登場するのでよろしくお願いします。

武田勝頼公最後の地を訪れる

 

 

こんにちは(^_^)/歴史散策好きなユキスナです。

今回は武田信玄公の四男であり、武田家を継いだ

武田勝頼公の最後の地を訪れるべく、山梨県

田野地区にある景徳院へ行ってまいりました。

 

 

 

甲斐大和駅から景徳院へ

 

まずは新宿駅から特急列車で大月駅まで行き

そこから中央線に乗り換えて甲斐大和駅まで

行きました。甲斐大和の駅は無人駅であります。

新宿~大月まで特急列車の指定席で片道2362円で

約1時間。大月〜甲斐大和駅までは330円18分です。

甲府駅から甲斐大和駅までは506円32分です。

 

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この駅は登山をする方々が多く利用する駅でもあり

私が訪れたときも大勢降りて行きました。

駅出て南の方に行くと甲州街道沿いにコンビニが

あるので、食べ物や飲み物買っておいた方が

良いと思います(^^)/

散策するときはトイレの場所気になったり

しますよね。駅やコンビニや銅像近くのトイレ

行き忘れた時は景徳院の近くにもトイレがあるので

安心してください。

では観光案内図を見て、景徳院の場所を確認

したらいざ出発でございます!


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その前に駅近くにある勝頼公の銅像に挨拶してから

行きましょう。
右手に軍配を持った姿は勇ましく、

戦国の世を一生懸命生き抜いた

立派な武将だということがわかりますね。f:id:yuki-snu2:20210918222251j:image

それでは武田家終焉の地である田野の地へ

甲州街道沿いを歩いて訪れていきます。

どういう想いで勝頼公はこの道を歩いていたのか

考え、一歩一歩私も足を進めながら周りの

風景を目に焼きつけては、歴史の真実の風を

肌で感じてみるのも良いですよね。

甲州街道沿いの道は狭いので、人とすれ違う時は

気おつけたほうが良いですよ。

景徳院に向かう途中に分かれ道があるので、

そこを左の方の道を進みましょう。

左の道は大菩薩初鹿野線で景徳院まで続いてます。

そのまま甲州街道沿いに行くと道の駅甲斐大和

ありますが途中短いトンネルがあり、

歩いて行けないことはないですが道が狭いので

車には十分注意してください。


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分かれ道からしばらく歩くと山梨では有名な

ハッピードリンクショップが見えてきます。

歩き疲れて喉乾いたところにこの自販機の数は

色々選べて嬉しいですね。

まさにハッピーな気持ち(^^♪

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そしていよいよ四郎作古戦場跡地に到着。

ここでは忠義の武士小宮山内膳友晴さんが

登場します。

小宮山内膳さんは使番十二人衆にも選ばれた

事もあり、武田家の軍政にも関わっている

人物です。天正3年の長篠の戦いの後

中枢を重臣たちが中心になって

武田家を支えていましたが、小宮山内膳さんは

臆すことなく自分の意見を発言しました。

しかし他の重臣達はそれを快く思わず、

小宮山内膳さんを蟄居(家の中で謹慎)に追い込んで

しまいました。

その間にも織田軍が甲斐国に侵攻し、

武田家そして勝頼公の立場は

どんどん家臣の離反などにより追い込まれ、

とうとう甲府を追われ岩殿城に向かう事に

なるのですが土壇場で小山田信茂にも

裏切られて、いよいよ打つ手なしとなった

ところに主君の危急を知った小宮山内膳さんが、

急いで馬に乗って決戦前夜に駆けつけたのです。

友晴「譜代の臣でありながら武田家の最後の

戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの

羞恥であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い

最後の戦いの御楯となり高恩の万分の一にも

報いたい」と言い、

勝頼公も「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳のいたす

ところであった」と言い許しました。

このあとこの場所に陣を敷き迫りくる織田軍と

獅子奮迅の死闘を繰り広げ戦うのです。

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しかし織田の先鋒滝川一益や河尻秀隆の軍

4000千に攻め込まれ

さすがに多勢に無勢どんどん押し込まれて

日川まで後退して行くことになります。



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日川を挟み鳥居畑古戦場あたりで織田軍を何回も

少数ながらも撃退して、下を流れる日川を兵士の

血で染めたと言いますが、

ほとんど織田兵士であり、武田軍の強さ

最後まで敵に見せつけました。

最強武田軍の強さは健在であり、もしちゃんとした

兵力があれば織田徳川に負けないと私は思いました。

武田軍や勝頼公が好きな私にとって無念な気持ちが

強い場所でした(-_-;)

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鳥居畑古戦場を少し進むと姫ケ淵の慰霊碑が

見えてきます。

勝頼公に嫁いできた北条夫人の身の回りの

世話をする従者達16人が、日川に飛び込み

殉死したといいます。

大きな石のレリーフにはその光景が描かれていて、

飛び込んだ場所はもう少し上流だとも言われています。

敵方に捕まればどうなるかわかっていたので、

必死の覚悟で川に飛び込むしかない状況を思うと

切なく悲しくなりますね。
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景徳院はもう目の前ですが、先に土屋惣蔵さんが

奮戦した日川の上流に向かいたいと思います。

 

 

忠義の家臣土屋惣蔵の片手千人切り

 

勝頼公一行は最初に武田家縁の天目山

栖雲寺(せいうんじ)に向かってましたが、

敵は深沢口(甲州市勝沼町)から先回りして

勝頼公一行の行く手を阻みました。

これ以上進むことが出来なくなった勝頼公一行は

田野の郷に引き返すことになります。
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日川沿いを勝頼公一行が歩いて進んで行く

気持ちを体感すべく私も歩いて行きましたが、

当時の山道は今の道より狭く整備されてないので

同行していた従者の女性や北条夫人には

辛いものがあったと思います。



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途中に竜門峡があり竜門橋から天目地区

まで日川を両岸にまたがり延長2.4kmの

ハイキングコースがあるそうです。

そして竜門峡から少し歩いて行くと

土屋惣蔵(昌恒)さんの片手千人切りの場所があります。

土屋昌恒さんは武田家の家臣で譜代家老衆の

一人であり、長篠の戦いで討ち死にした

武田二十四将土屋昌続さんの実の弟であります。

実の父は金丸筑前守ですが、旧今川家臣で

武田海賊衆でもある土屋貞綱の養子になり、

土屋の姓に変わりました。

土屋昌恒さんの子(土屋忠直)は後に徳川家康

気に入られ上総国久留里藩主になります。

武田家に最後まで忠誠を尽くした父昌恒さんの

忠義の姿は敵味方を魅了したのですね。

その土屋昌恒さんが最後に使えたのが勝頼公!!

勝頼公一行が織田軍に行く手を遮られ

田野の郷に戻るまで敵を引きつけるために

土屋昌恒さんが狭い道を選びそこで片手に

藤蔓を掴んでもう一方の手で刀を掴み

寄せ来る敵を片っ端から崖下の日川に落とし、

下の日川が三日間血で染まったといいます。

鬼神の如く刀を振るい敵の進軍を抑え何十人も

切伏せた事から「片手千人切り」の異名が

ついたんだと思います。

この場所まで景徳院から歩いて24分くらい

かかりました。
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下の日川を覗いて見るとかなりの急な断崖!!

戦国時代の当時の道はかなり狭いと思うので、

下に落とされたら命はありません。

この場所で蔓に掴まって刀を振り回してたと思うと、

敵の立場だと恐ろしいと思います。
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このあと土屋昌恒さんは奮戦しますが、さすがに

動きまわれば体力もなくなり、最後は主君の

いる場所で死にたいと思い勝頼公のいる

田野の郷まで戻ることになります。

私も歩いて最後の地景徳院まで戻りますよ!

 

景徳院の勝頼公墓所にお墓参り


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景徳院の近くには勝頼公と信勝公の親子の首が

洗われたという池があります。

首実検の前に誰の首か確かめてよく洗い髪をとかし

化粧を施すらしいです。身分によっては乗せて運ぶ

台も変わってきて、首実検をするときは武装した

兵士が側で待機して大将首の奪還を阻止したり、

これは迷信でしょうが首が飛んでくるとも

言われていました。


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では景徳院の中に入って行きましょう!

景徳院は武田勝頼公一行を供養するために

徳川家康が建立したお寺です。

武田家が滅んだ後に武田の家臣は

このお寺の建立を知り、徳川家康公に

いっそう忠義を尽くしたとも言われています。

山門まで歩いて来る途中神聖な空気を体中

感じ、身が引き締まる思いでした。

 

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この山門の手前を右に曲がって進んでいくと

勝頼公(37)、信勝公(16)、北条夫人(19)の

辞世の句があります。

最後の最後まで裏切りにあった勝頼公でしたが、

北条夫人だけは何とか実家のある小田原に

逃がそうとしますが、北条夫人はそれを拒否し

ひたすら愛する夫と共に最後をとげたいと

付従い、見事な最後をとげる事になります。

私はこのお話を聞いたとき勝頼公が

いかに日頃から優しい人だったのか、

その光景を思い浮かべると素晴らしい夫婦愛に

感動いたしました。

 

北条夫人の辞世の句

「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき

 思いに消える 露の玉の緒」

勝頼公の辞世の句

「おぼろなる 月もほのかに雲かすみ

 晴れて行方の 西の山野の端」

信勝公の辞世の句

「あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの

 春の夜の夢」
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墓所には3基の石塔があり、
勝頼公のお墓は中央で右側が北条夫人で

左側が信勝公です。

ここまで無事来れたことに感謝して、お線香を

お供えしてご冥福をお祈りいたしました。


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お墓の前には甲将殿があり勝頼公や北条夫人や

信勝公の坐像がおいてあります。

立派な建物で歴史を感じました。


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甲将殿の前方には自害した生涯石があり、
生涯石の松の下で信勝公に楯無の鎧を着せ

武田家の当主を継がせました。

このあと自害し名門甲斐武田氏はここに滅亡

することになります。

もし織田と武田の血を受け継いだ信勝公が

何事もなく武田家の当主になっていたら、

どんな歴史になっていたかと思うと胸熱くなるものが

ありました。(信勝公の母親は美濃国衆の遠山直廉の

娘で織田信長の養女です。)

この生涯石近くの細い階段を中腹まで降りていくと

首のない没頭地蔵尊があり、ここには元々

武田勝頼公や北条夫人や信勝公の遺体が葬られて

いたらしいです。

景徳院の入り口近くからも上がって行く階段が

あるので、こちらからも行ってみてください。


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それでは勝頼公に別れを告げ甲斐大和の駅に

戻るとしましょう!

駅まで歩いて40分近くかかりますが、

頑張りましょうね。

途中の分かれ道で道の駅甲斐大和

行けるようでしたら、地元で採れたウラジロを使った

ウラジロまんじゅうなど売っているので、

買ってみると良いですよ(^^)/美味しいですし、

よもぎ餅みたいで食べやすいです。

ここで昼食をとっていくのも良いですね。

何とか甲斐大和駅近くに戻ってみると鉄の柵に

描かれた武者の絵を発見!

出発するとき見忘れてました(^_^;)

地元の歴史が身近に感じられる

工夫がされていて、勝頼公が地元の人達に

愛されているのがよくわかりますね。


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4月後半には武田勝頼公祭りも行われていたり

勝頼公の遺徳を偲びその霊をなぐさめて、

武田家の最後の歴史を伝えるお祭りに

なっています。

お祭りには一般公募で選ばれた鎧兜を身に着けた

勇ましい武者の行列が見れるので、オススメです!

会場では地域の特産品を使った出店なども

あるので、食べながらその場の雰囲気を体験し

楽しみながら参加しましょう。

会場にはパイプ椅子もあるので、ゆっくり

座りながら見ることもできますよ。

私が一つアドバイスするとしたら4月ですが

日の光がけっこう強かったりするので、

帽子や暑さ対策もした方が良いかもしれません(^^)


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武田勝頼公祭りプログラム表参照

 

毎年勝頼公とその一族の供養も兼ねて

勝頼公祭りに来たり、景徳院に行き

お線香を供える事でより武田の歴史を知り、

勝頼公が好きになっていくのがわかります。

また来年も無事来れることを祈り、

甲斐大和の地を後にしたいと思います(^_^)



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↑因みに自販機で買った冷やし甘酒飲んでます!

 暑い日は熱中症対策で良いですよ〜

 

武田勝頼公最後の地を訪れる      おわり

次回までごきげんよう

生誕500年!武田信玄公の生涯展

 

 

こんちには(^_^)/毎度おなじみのユキスナです。

今回は私の尊敬する武将である甲斐の虎

武田信玄公が生きてきた歴史がわかる

[武田信玄の生涯展]を見るべく山梨県

山梨県立博物館に行って来たことを

記事にしていきたいと思います。

 

 

ゆったり街歩きしながらまったり

 

私は今回新宿駅から石和温泉駅まで

特急あずさで1時間半乗って移動しました。

都心からも近いですので、気軽に来れますね。


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では石和温泉駅から山梨県立博物館に行く前に

駅近くの足湯に寄っていきたいと思います。

初めて足湯入りますが、駅近くにあるのは

嬉しいですね。バス停も側にあるのでバスが

来るまで足湯に入りながらゆったり待つことが

できます(^^♪しかも無料!!

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足湯に入れる時間は

午前10時〜午後6時(4月〜9月)

午前10時〜午後5時(10月〜3月)

あまり早い時間に行ってもお湯が溜まって

ないので、そこは注意してください(^.^;


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階段の手すりや段差解消されていたり

車椅子スロープも有るので車椅子の方も

安心して入れます。

足湯に入ったあと足を拭くのにタオルが

必要な場合は石和温泉駅観光案内所で

タオルが有料で販売されていますよ。

効能は神経痛、筋肉痛、打ち身、慢性消化器病

   冷え性疲労回復、痛風

因みに石和温泉の歴史を少し見てみると

石和温泉の地域は天正10年の(1582年)に

織田信長の手勢によって、石和八幡神社、観音寺、

八田屋敷(武田家の家臣の八田家)ともに焼失

してしまいます。

武田家の滅亡により大事な歴史的遺産が

織田軍の手によって焼失してしまったのは

悲しいですね。
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それでは山梨県立博物館に向けて

出発しましょう(^^)/

駅前通りを南に進んで行きましょう。


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途中に笛を吹いている銅像があったので

調べてみたら、笛吹権三郎さんだとわかりました。

笛吹権三郎さんは上釜口の芹沢というところに

母親と二人暮らしをしてました。

ある日大雨が降って小西川が氾濫し、権三郎と

母親は濁流に飲み込まれてしまいます。

若い権三郎は何とか助かりますが、母親が

流されて見つけられなかったそうです。

権三郎は得意の笛の音で母親に聞こえるように

吹き続けましたが、結局見つけられずとうとう

権三郎自身も探してる途中で疲れで足を滑らせ

力尽きてしまったのです。

その後にこの川では綺麗な笛の音が

聴こえてくることから、笛吹川と呼ばれる

事になったそうです。

凄いお母さん想いの優しい人だったんですね。

普段気に留めないような川の名前の由来など

足を止めてじっくり眺めたり、調べたりして

知ることは本当に素晴らしい事だと思いました。

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では権三郎さんに別れを告げ目的地に向け足を

進めて行きましょう。

少し進んで行くと石和温泉停車場線

国道411号が見えてきますから、

信号を渡って左に曲がって歩いて行きます。

国道沿いを歩いてると駅前で見た足湯と

同じタイプの建物を発見!

こんな所にもあったのかと驚きました。

バスに乗って行ってたらわからなかったな^_^;

この石和小林公園の名前にもなっている

銅像の小林中(こばやしあたる)は日本開発銀行

初代総裁も務め財界四天王と呼ばれるほどの

お偉い方で、この石和町の名誉町民にもなってる

地元の有名人らしいです。

この場所は旧邸宅だということで銅像

あるのですね。なるほど(・o・)


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この場所の足湯はお湯が程よく溜まっていて、

気持ち良さそう。駅前の方は時間が早かったので

お湯が溜まってなくて無念でしたが、ここで挽回

できそうw

こちらの足湯は歩いて足ツボマッサージができる

道があり、イタ気持ち良い感じが素晴らしい〜♪

バス停も近くにあり待つのにも良いし

散歩につかれたら足湯最高すぎます✨


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いつまでもいたい気持ちですが名残惜しくも

時間がないので、出発したいと思います。

少し進んで行くと鵜飼(うかい)橋通りが

見えてくるので

右に曲がって笛吹川に架かる鵜飼(うかい)橋を

渡っていきます。

この川が笛吹川なのかと権三郎さんの事

思い出しながら、川の流れが笛の音に聴こえないか

耳を澄ませながら渡っていきました(^^)

そしてここからしばらく歩いて行き、

甲州街道勝沼バイパスを通り過ぎたところに

いよいよ目的地の山梨県立博物館

見えてきました!!

 

山梨県立博物館で信玄の生涯展を堪能

 

信玄公がお出迎えしてくれました〜
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初めて訪れましたが立派な建物ですね。

武田菱の旗や孫氏の旗が掲げられていて

入る前から興奮します!


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検温とアルコール消毒をきちん済ませて

入館しますね。

山梨県立博物館は常設展示観覧料は一般で

520円なのですが、武田信玄の生涯展は

1000円でした。

展示場入口では信玄公と一緒に写真撮影

できたり嬉しさいっぱいです。
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大きな武田二十四将図などもあり入る前から

ドキドキでした。

その他にもTKD総選挙(武田の武将)などもあり、

私は山本勘助さんに一票入れてきました(^^)w

後で知ったのですが、結果は

1.山本勘助 2.武田勝頼 3.武田信繁

1位は私が推していた山本勘助さんでした!!

嬉しい〜(^o^)素晴らしい👏

TKDお城総選挙(武田のお城)の方は

1.高遠城 2.要害山城 3.海津城でした!

因みに私の推していた岩殿城は4位でした。

そしていよいよ中に入って行きますよ。
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1.誕生から家督相続

初めに武田信虎公の像(信玄公の父親)

大井夫人の像(信玄公の母親)を

見ながら、信玄公の幼少期に使われていた

木馬の像?小さい子供が跨って遊んでいたであろう

玩具のようなものですね。

信玄公がこれに乗って遊んでいたと思うと、

凄く身近な存在に感じて親しみがわきました。

この頃武田家と今川家は激しく争っていて、

その争いの中避難していた大井夫人が要害山城で

勝千代を生みました。後の信玄公です。

この後信虎公は今川軍を甲斐の国から一掃して

事実上甲斐国統一を成し遂げました。

展示には貴重な信虎公の発給文書などもあり

食い入るように見ていました。

その他にも信玄公が父信虎公を駿河

追放した際に今川義元公が出した書状など

見ることができ感激でございます。

武田家の本拠甲府の古府中絵図など

信玄公の御館形図など城下町遺跡からの出土品も

見れました。

その当時使われていたお皿とか見ると、

色々想像しちゃいました(^^)

2.初めての敗戦

甲州法度之次第の条文など、テレビや書籍で

見たことありますが、実際に見ることなど

なかなか無いことなので、じっくり見てました。

信玄公、生涯初の敗戦

上田原の合戦で村上義清と対峙した信玄公は

重臣板垣信方甘利虎泰ら優秀な家臣を

失い、信玄公も手傷を負ってしまった程の

敗戦でありその戦の結果を村上義清が書状として

上野衆の小林氏に出して、味方につくように

要請した書状も展示されていました。

敗戦直後に武運長久のため作られた狛犬

像があったのですが、どことなく顔が

優しい感じがしてほっこりしました。

私個人的に山本管助が好きなので、

信玄公が山本管助に伊那郡での

働きを賞して百貫文の恩賞を与えることを伝える

書状が見れて良かったと思います。

武田軍の資金である金が遺跡から出土したものなど

その当時の輝きを失うことなく、現在でも

魅了するものであったのが見てよくわかりました。

↓密にならないように矢印通り移動でございます✨
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3.川中島の戦い

信濃支配の最大の障壁である信玄公

最大のライバル!!越後の龍上杉謙信

一般的に知られている法体で黒い頭巾を被り

軍配を持っている肖像画など拝見できました。

上杉謙信川中島の戦いで信玄公と戦い

小田原攻めでは大規模な軍事行動を行ったり

私的な戦いを好まず義の戦を良しとした

戦国武将としては珍しいタイプの武将ですが、

そうした人間性が多くの人々を魅了するのも

よくわかる展示内容でした。

書状には川中島の合戦の初期の頃の物や

第四次合戦に至るまでの物が残っており、

その時の緊迫した状況などが伝わってきます。

川中島合戦の一騎打ちの合戦屏風は有名ですよね。

その他にも武田家伝来の家宝楯無鎧の復元模造や

信玄堤絵図など貴重な資料が見れて良かったです。

信玄堤がその地域の人達を守り、地域の住民も

信玄堤をメンテナンスするなど、無くてはならない

存在だということがよくわかる内容でした。

4.上野·駿河

川中島の合戦以降信玄公は上野に侵攻して

行くことになります。

武田家と北条家は協力し関東に出兵して

領土を拡大させていきますが、やはり

ここでも上杉謙信が大きく立ちはだかります。

謙信が北条方の下野祇園城の小山秀綱を攻めて

降伏させたのを知った北条氏康は、

信玄公が松山城攻略後に帰国して油断したから

城が落とされたのだと言ったと言います。しかし

信玄公は書状で「関東の小山が落ちたのは関東の

武士が不甲斐ないからだと北条氏康に伝えました。」

書状の内容は信玄公がその時の関東武士を

どう評価していたのかわかる貴重な資料です。

永禄八年の十月頃発覚した嫡男の義信による

クーデター事件に関する新しい資料も

興味深かかったですね。

高野山の武田家菩提所の宿坊の成慶院から

供養帳が見つかったことで、

クーデターに加わっていたとされる

飯富虎昌さんの命日と成敗された時期が一致

するのがわかって、信憑性が増したのが

わかりました。

いよいよ信玄公は駿河に侵攻!

駿河駿府を占領したあとに家康に出した

書状は感謝の気持ちも込めながら、懸川城を

早く落とすようにとの催促でした。

こうした事態をよく思わない北条家は

越後と同盟を結んで武田包囲網を築いていきます。

武田家も勝頼と信長の養女と婚儀を結び

足利義昭に依頼して上杉との一時的和睦など

色々準備していたのがわかる書状など

この目で見ることができました。

そして信玄公は直接対決すべく小田原攻めに

取り掛かることになります。

武蔵国から侵攻し北条の諸城を

攻撃したのち南下して、小田原を包囲するも

大規模攻撃はせず、そのまま撤退します。

しかし北条軍はこれを見逃さず追い打ちをかけ

三増峠で武田軍と激突することになります。

それが三増合戦です。三増合戦図などで見ると

どこに布陣していたのかがよくわかります。

結果は武田軍の勝利で終わりました。

5.天下人との戦い·信玄の死去

ここからはいよいよ二人の天下人との戦いが

始まるのです。

北条家との戦は氏康が亡くなり、同盟が復活

するのですが今川家を打倒するため手を組んだ

家康との関係が、遠江の所領を巡って争いになり

ここに織田徳川VS武田の戦が勃発します。

まずこのコーナーに来て一番見たかったのが、

信玄公の菩提寺である恵林寺に保管されている

不動明王坐像!!信玄公をモデルにして

作られていると言われており、信玄公の髪の毛が

像の髪の彩色に使われているのには驚きました。

不動明王のお顔は厳しく見えますが

人々を優しく見守る覚悟ある姿であり、

まさに信玄公と重なる部分があり感動しました。

信玄公も川の氾濫や度重なる飢饉から

人々を守りたいという気持ちだったので、

信玄公も不動明王様を大事になさって

いたのかもしれませんね。

他にも貴重な仏像、勝軍地蔵騎馬像など

見れて感激でした。

そして戦は武田の西上作戦により徳川と

遠州三方ヶ原合戦に突入していきます。

この当時の書状に織田信長の武田家との断行が

書かれたものもありました。

武田軍は徳川の領地三河浜松城近くまで

行きますが、素通りして先に進んで行ったと

言われています。その様子を見て徳川家康

このまま何もせず行かせれば、国衆の離反を

招くと恐れ武田軍に勝負を挑むことに

なりますが、予想通りに武田軍が反転して

徳川軍に襲いかかる事になり、武田軍の

圧勝となりました。

その時徳川家康は急いで浜松城に逃げ帰り

あまりの恐怖で馬上で脱糞してしまうという

屈辱をあじわいます。

その時のことを忘れないように「しかみ像」を

描かせたとも言われています。

複製のものでしたが見れました!良かったです。

ここまでは何とか進軍してきた武田軍も

信玄公の死去により、やむなく甲斐信濃

撤退することになります。

信玄公の死は3年間は隠しておき白紙の花押

だけ用意して、知られぬように署名を作成

して生きているようにみせていましたが、

やはり急に進軍を止めて甲斐に戻ったことは

関係各国が疑り、死亡したのではないかと

様々な書状が飛び交う事態になった事は、

資料を見てもわかりました。

その後武田家の家督を継いだ武田勝頼公は

奪われた長篠城を取り返すべく織田徳川と

戦う事になりますが、重臣の多くを失う

大敗をしてしまいます。

そこから急速に武田家の力は衰えていき、

天正10年(1582)3月11日にとうとう武田家は

山梨郡の田野で武田勝頼公が自刃して

滅亡してしまいます。

私個人の感想ですが、

ただ滅亡したという話ではなく

裏切りや離反が多かった時に

最後まで勝頼公に付き従った武田家臣の中でも

土屋惣蔵さんの奮戦や謹慎になっていたにも

かかわらず、主の危機に参上した小宮山内膳さんの

ような忠義の心を持った人達の事も決して忘れては

ならないと思いました。

(武田勝頼公最後の戦いの記事はまた次回

書きたいと思います。)‚

 

6.信玄の遺産

信玄公の死後重臣であった高坂弾正

「甲陽軍艦」の作成に取り掛かることになり

高坂弾正が死去したあとは、甥の春日惣次郎が

完成させます。

甲陽軍艦は後の世の武士に多くの影響を与え

人気があったのは本当に凄い事だと思いますね。

武田家が滅亡したあとに徳川家の家臣となった

柳沢氏には後の徳川綱吉側用人として使えた

柳沢吉保がいますが、柳沢吉保は信玄公を

尊敬しており、甲斐国恵林寺を整備したり

武田家再興のために尽力しました。

柳沢吉保像も立派でした。

柳沢吉保といえば赤穂浪士の討ち入りで

有名であり、良い印象がなかったのですが

一変目線を変えて柳沢吉保という人を

調べていくと、武田信玄公を尊敬していたり

武田家のために一生懸命に尽力してきた姿は

本当に素晴らしい功績だと思います。

偏った目線で見るのではなく広い視野で

その人物の実像を捉えることは、

本当の意味での歴史を知るということでは

ないでしょうか。

後の世の人々は信玄公だけではなく、

その武田家臣団にも尊敬の念を持ち

武田二十四将図は大変人気があったと

思われます。

明治頃から信玄公への人々の想いから

武田神社の創建が言われてきましたが、

とうとう大正時代に念願の神社本殿が

完成され、人々は大いに喜びました。

その後信玄公の銅像甲府駅前に設置

したり、信玄公を称えるために信玄公祭りも

開催される事となり、本当に山梨の人々の

中で信玄公という存在は大きなもので、

尊敬され愛される存在だということが

よくわかる資料が多かったです。

この信玄公生誕500年の記念の年に

山梨県立博物館に来れたことは

私の人生の良い経験となり、

この貴重な時間は宝物になりました。

このような展示をしてくださった

山梨県立博物館の方々や関係者様に

本当に感謝を申し上げたいです。m(_ _)m

このような貴重な展示物を拝見できる

山梨県立博物館に皆様も訪れてみては

いかがでしょうか(^^)/

                                                                  

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信玄公の生涯展お土産

 

山梨県立博物館の期間限定信玄公お土産コーナーで

購入した武田信玄の生涯展の内容がわかる本も

買えて満足でございます。

紙製のクリップや木製のキーホルダーも

素晴らしいです。

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  生誕500年! 武田信玄公の生涯展   おわり           

夏の日の散策で役立つもの2

 

 

 

  • 暑い日だからこそ何処でも涼しく過ごしたい!

  皆様コンニチハこんばんはユキスナで

  ございます。  

  好きな山城や歴史史跡を散策するため

  特に夏場など日々便利なグッツを探しています。

  暑い日を快適に過ごせるように、

  良いものがあったら

  記事に載せていきたいと思います(^_^)/

  では、今回私が紹介したいのは暑い日に

  役立つ2WAY使用のモバイルベルトファンです! 

  ELAicE(エレス株式会社)

  iFan BodyBlou(アイファンボディブロー)  

  
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仕様

型番 IF-BB21NV

入力 DC 5V 2000mA (USB充電式)

充電電池 リチウムイオン蓄電池3.7V4000mAh14.8Wh

充電時間 約3時間

連続使用時間 約3.5〜13時間

外形寸法 約85×50×100mm

本体重量 約210g

材質 ABS      

付属品 充電用USBケーブル、ネックストラップ 

 

※充電時間は接続機器の電源供給能力が低い場合に

 極端に長くなる可能性があります。

※使用時間は使用する風量の強さにより異なります。

使用方法は

ベルトクリップを使用してベルトに装着して

シャツの中に風を送風する仕組みです。

この際気おつけたいのはシャツで吸気口の

部分を覆い隠してしまうと、故障の原因や

風量が落ちてしまうので、本体についている

マグネットクリップを使用してシャツを挟んで

固定してくださいね。

ベルトにつけて使用する際は激しい運動や高い

場所に登っての使用はやめておいた方が良いです。

落下して怪我をさせてしまうからです。

もう一つの使い方はネックストラップを使用して

首から下げて使う方法です。

ここで注意したいのは、女性が使う場合髪の毛などが

吸気口などに吸い込まれる恐れもあるので、

十分気おつけてください。

マグネットクリップ部分の磁石は強力なので、

心臓ペースメーカー等体内埋込医療電子機器を

装着している方は使用を避けたほうが良いです。

落としてしまった場合不具合が発生する場合が

あるので、様子が変だった場合使用を

やめたほうが良いです。

リチウムイオン蓄電池(バッテリー)について

充放電可能回数は300回数で、繰り返し充電すると

満充電時に使用できる時間が少しずつ短くなります。

充電はバッテリーの容量をある程度消費してから

行ってください。バッテリーが常にフル充電に

近い状態で充電を繰り返すと、バッテリーの

寿命が短くなります。

バッテリーが空の状態で長期間放置すると

バッテリーの寿命が短くなるので、

一ヶ月に一度1時間半くらい充電すると良いです。

私の別の記事で空調服の事を書いてますが、

このモバイルベルトファンは空調服と違い

色々な服に対応できる所が良いと

思いました。

空調服の良いところは空調服とファンが一体であり

風をなるべく逃さないように首元や脇の下から

体を冷やしてくれます。風量は空調服の方が

4段階調節できます。

一方モバイルベルトファンは

普段着でも気軽に装着できるのが利点であり、

風量も弱·中·強の3段階から選べその場の状況に

よって切り替えられて便利です(^_^)/

持ち運ぶのにも楽ですし、手で持つ必要もなく

首から下げるかベルトに装着していれば

いつでも起動出来ます!

普通のハンディタイプの扇風機は手で持つ

タイプがほとんどですが、

いつも手で持っているわけにもいかないですから

本当に両手が使えるのは重宝します。

 

小さくてもパワフル

使用時間を自分で確かめた結果

弱の場合で連続使用すると13時間くらいで

中の場合で6時間、強は3時間半です。

外で長い時間使う場合は中に設定しておき時々

強に切り替えるのが丁度よいと思われます。

3時間以内のお出かけなら強でも良いと思われ

ますが、やはり強にすると音が気になったり

するので、人が多いところで使用する場合は

中にしておいてもけっこう涼めます。

連続使用する場合の注意として

風を長く体にあて続けると良くないので、

適度に止めたりして使用してください。

使用する場所は脇の下の丁度下の腰あたりの

ベルトやズボンに装着します。

(なるべくならベルトに付けたほうがしっかり

付けられて、下に落ちにくいです。)

首元に下げて使う場合は、吸気口に髪の毛など

入り込まないように気おつけましょうね。
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シャツで吸気口を塞がないようにマグネットで

しっかりシャツを挟みましょう!

シャツで吸気口を覆い隠してしまうと、

風量が弱くなってしまうので、気おつけましょう。

シャツを挟むときは、シャツをたるませず

よく伸ばした状態で挟んでやると、脇の下まで

風が通りやすくなり涼しいです。

涼しくしたい場所(背中↖や脇の下や↑お腹↗)を

ファンの角度を調整してあげましょう。↖↑↗

シャツを挟むと風量調節ボタンが

押せなくなりますが心配無用です👍

吸気口の下側にももう一つボタンがあるので

問題ないです。

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私は使用する前に制汗剤などメントールの成分が

入ったものを脇や背中や首元(お腹に

吹きかけすぎると冷えすぎるので冷感刺激が

苦手な人は気おつけましょう)に

吹きかけてから使用するようにしてます。

汗をかいたあとでも臭いが抑えられますし、

風があたるとスースーしてより涼しくなります。


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あと使用する場所は腰に装着するか、

ストラップで首元に下げて使う方法以外の

使用は避けたほうが良いです。

一度リュックのショルダーハーネスに

取り付けようとして、失敗して下に落ちそうに

なりました。落下すると損傷して故障の原因に

なるので、説明書に書いてあるとおりの使用

以外はしないほうが良いです(^_^;)

私は特に暑がりなので、右側に1台左側に1台

ベルトに付けてダブルファンで涼んでます(^^)



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暑がりで汗っかきの人が少しでも夏場を

快適に過ごすことができるように、

これからも便利な夏対策グッツを紹介して

いきたいと思います(^_^)/

 

                  おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山梨県大月市の岩殿城跡を登頂 後半

 

 

   

 岩殿城跡の北側畑倉口から登頂を目指す

 

 皆様こんにちは(^_^)/

 岩殿城跡の登頂後半に参りたいと思います。

 では一度丸山公園入口まで戻りそこからの先の道に

 進んで行きますと、中央高速が下に見えてきます。


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途中まで歩道がありますが、その先からは

道路端の路肩を歩いて行きますので、

気おつけて進んで行きましょう。

岩殿城の東側には今はなき円通寺というお寺があり

非常時には砦化され、桂川葛野川を渡ってきた

敵兵を迎撃出来るようになっていました。

円通寺よりも北の方には東光寺という寺があり

こちらは少し高い位置にあったので、非常時には

砦化及び敵軍の監視の役目を

担っていました。

もし敵が桂川を渡って強瀬から攻めてくれば

円通寺から出撃した兵に攻撃され、

岩殿城の後ろの方に回り込んで行こうとすれば、

途中の裏砦の宝林寺を攻略しなければならず、

近くの葛野川を渡って攻め込もうとすると

対岸の円通寺からまたもや兵が出撃して攻撃されます。

宝林寺を攻略して、葛野川を渡らずそのまま北側まで

行き、東光寺付近から川を渡って攻め込み砦を陥落

させたとしても、その先の深さ70m幅100mの

大沢堀に進路を塞がれその堀を何とか

突破したとしても、その先の武家屋敷がまた

砦となり攻めるのに難儀しそうです。

やっとのおもいで武家屋敷を通り抜け

岩殿城に攻めようとすると新宮出丸

(新宮洞窟·鬼の岩屋)から

兵が出撃して、攻撃の勢いを削がれて

しまいます。

東と北からの攻撃が難しいならば西側から

と思いますが、浅利村から行こうとすれば

兜岩や稚児落としでも有名な場所でもある

岩山や足場の悪い道を通っていかなければ

ならず、攻め込むのは難しく思えます。

このルートは落城時の逃げ道にも

なっていたらしいです。

岩殿城は幾重にも山麓防衛の施設があり、

容易に陥落させることが難しい難攻不落の

山城で、織田に追われ最後に武田勝頼公が

籠城するため目指した理由もわかります。

 



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  ↑

  東光寺方向から見た山麓防衛網の配置

①岩殿城本丸 

円通寺(非常時砦化)

③宝林寺(裏砦)

④東光寺(非常時砦化及び監視所)
△大沢堀

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 では引きつづ円通寺があった場所近くを

 通り過ぎひたすら道なりに国道139号線を

 進んで歩いて行くと、左側に畑倉登山口が

 見えてきます。

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 畑倉口登山道入り口では大月の桃太郎伝説

 登場する鬼が、住処にしていたとされる鬼の岩屋

 の看板などもあり、登る途中こちらも少し

 見ていきたいと思います(^^)/

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 それでは岩殿城を後から足軽になった気持ちで

 登って行きましょう!
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 登山道に入ってすぐに近くを小川が流れていて

 足場に気おつけながら前に進んでいくと、

 人がすれ違う程度の幅の道が上の方まで

 続いており、トレッキングポールなどを活用して

 安全に登るため足に負担をかけないように

 行くのが良いと思います。

 戦の時は刀や槍を持ってこの山を登って

 行かなければならないと思うと、ゾッとしますね。

 しかも当時の岩殿山はより登りにくく防御を

 固めていたと思うので、普通に登るよりかなり

 きついと思われます(^_^;)

 

 
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 そして少し登って行くと岩殿山の頂上に行く方と

 鬼の岩屋(新宮洞窟·新宮出丸?)に向かう方の矢印が

 見えてくるので、左の鬼の岩屋の方に

 一旦寄り道していきます。

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 人一人が通れるくらいの細い道を少し歩くと

 目の前に本当に鬼が住んでそうな岩の洞窟が

 見えてきます。


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 昔の人はこの岩屋を見て鬼が住んでいると

 思ったのですかね。

 ちなみにこの新宮洞窟(鬼の岩屋)は出丸として

 活躍したり、

 兵舎としても使われていたらしいです。

 そんなことを考えながら再び山城に

     登って行きます!       

 
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 なかなかの傾斜を重いリュックを背負いながら

 登るのも辛いものがあるのに、

 鎧武者や足軽など装備を色々持ちながら

 登っていくのは、相当登りにくかったろうと

 つくづく思いました。

 それにくわえて城方の兵が防御のために

 攻撃を仕掛けてきたら、足場の悪いこの場所では

 一気に麓まで転げ落ちてもおかしくないです。

 昔の山城は現在のように木が生い茂っていないと

 思うので、つかまる場所もなく味方を巻き込み

 あの世行きです(-_-;)

 
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 現在の岩殿山を登っても転げ落ちそうに

 なりそうで怖いと思うのに、

 それをさらに登るのを邪魔されたら

 戦意を喪失してしまいそうです。

 戦国時代は死にものぐるいで城攻めを

 すると思うので、直に諦めて逃げる

 というのはあまりないと思いますが、

 私が足軽だったら諦めて下山しちゃいそうです(^_^;)      f:id:yuki-snu2:20210728204459j:image 


 そんなこんなでいよいよ岩殿城の本丸近くにまで

 迫ってきました!

 ここからラストスパートですよ(^_^)/

 一番激しい攻防戦をハァハァ息を切らせながら

 突破していきます!!


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 ようやく難関を突破して岩殿城本丸到着!!

 何とかたどり着きました(^_^;)良かった。
 
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 本丸跡地には防災無線施設が設置されていますが

 この防災無線施設も撤去されるらしく、より当時の

 本丸跡地に近づけると思います。

 

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 本丸からは大月の町並みや桂川がよく見えますね

 織田軍が笹子峠を越えて攻めて来ても、

 北条軍が東から来ても全て手に取るように

 わかります。

 この場所から岩殿城全体の兵士に指令を出して

 いたのですね。

 富士山も綺麗だし岩殿城本丸まで来て良かったな(^^)

 今回は登山道の一部が通行禁止なので、

 他の箇所を見て回れませんが、

    達成感がありました!

 

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 ここでお昼休憩してからの下山になるのですが、

 降りるときは登る時よりも注意が必要です。

 山道には枯れ葉が積もっている場所や

 疲労で足の関節など痛くなったりするので、

 急がずゆっくりトレッキングポールを

 第三の足と思って、体を支えて無理のない

 ように下山するようにしましょう。

 私も降りる時足が痛くなりトレッキングポールに

 助けられました👍

 それでは下山したら、元来た道を戻り大月駅

 観光案内所によって行きたいと思います(^^)/

 

 岩殿城跡に行ったら買いたいお土産!
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①岩殿城の御城印と武将印

 2021年は信玄公生誕500年の年なので、

 岩殿城の御城印と武将印にも記念のロゴマーク

 ついています(^_^)/

 販売場所は大月駅前観光案内所です。

 ロゴマーク入りの御城印の販売

 期間は2021年の3月20日〜12月31日まで

 販売価格は300円です。

小山田信茂公の手作り木彫りのお人形ストラップ

 1200円

 個数限定の木彫りのお人形ストラップなので

 一つとして同じものはありません!!

 大月の彫刻家小俣喜昭さん(68)が作った作品です。

岩殿山のピンバッチ600円はぜひ小山田信茂公の

 木彫りのお人形ストラップとセットで

 買ってもらいたいですね

 歴史好きにはたまりません。

 

まとめ

 岩殿城は武田勝頼公が、最後の決戦に選んだ

 城だったのに小山田信茂さんに最後に

 裏切られてしまい、思うように活用出来なかった

 不運な城でしたが、もしこの岩殿城で織田軍と

 戦っていたら相当手強く落とすのにかなり

 苦労したと思われます。

 それほどこの岩殿城は難攻不落の山城であり、

 東の最重要防衛拠点だった事がわかります。

 通常時は小山田氏が岩殿城を管理して

 非常時には武田氏が活用していたと

 思われる城を小山田氏は大切に守り、

 領民を何が何でも守りたいと強く願った

 小山田信茂公の優しさや主家を裏切らねば

 ならない苦しい心の葛藤など、

 現地に来て本丸まで登り、景色町並みなど

 観た時この風景を戦火に巻き込みたくないと

 思う気持ちが少しわかったような気がしました。

 今回私が行った時には強瀬ルートが通行禁止に

 なっており、畑倉口から行きましたが下山を

 浅利ルートから行けば、揚城戸など稚児落とし

 なども通れます。

 時間の関係と他の用もあり畑倉口から下山

 しましたが、時間に余裕がある方は是非

 訪れてみてください。

 

 次回は是非岩殿城全体を見て回り、記事に追加

 記載出来れば良いと思っています。

 お土産も新しいものがあったら載せていきたいと

 思います。お楽しみに(^_^)/

 

 

 では次回またお会いましょう    おわり

 

 

 

山梨県大月市の岩殿城跡を登頂 前半

 

 

 

岩殿城跡まで戦国武将の気持ちで歩いて行こう!

 

 こんにちは(^_^)/今回私は山梨県大月市

 岩殿城跡に歴史散策してきました。

 岩殿城跡のある大月市までは東京の新宿駅から

 特急あずさで約1時間くらいで行けます。

 交通費を安く済ませたいなら中央線の各駅電車で

 行くのも良いですね。

 各駅電車で東京に戻るときは高尾駅で中央特快に

 乗り換えると早いですが、凄い混みます(^_^;)

 東京から行く方は新宿駅から

 特急あずさで大月駅まで行くほうが止まる駅は

 3駅ですし、座席にゆったり座って行けるので

 オススメです。八王子と立川からも特急に

 乗れるので、皆さんが近いと思う駅から

 お乗りください。

 特急で新宿〜大月まで行くと2362円です。

 

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 駅から歩いてすぐの公衆トイレ近くで

 可愛らしい桃太郎自販機発見!

 調べてみると、ここ大月では桃太郎伝説なども

 残ってるらしく非常に興味深いです。

 大月桃太郎伝説のお話はまた別の記事で

 書いていきますね。お楽しみに👍

 では大月駅から岩殿城跡まで行ってみましょう(^^)/

 

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 駅前広場左方向に古民家麺処かつらさんの横の

 旧甲州街道を進んでいくと、分かれ道があるので

 遮断器がある左に行きましょう。


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 ここからでも岩殿山が良く見えますね。

 この道を電力会社沿いに歩いていくと、

 小さい通りが現れるのでそこを右に曲がって 

 進んでいきますと、桂川に架かる高月橋が

 見えてきます。


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 高月橋からの景色は良いですけど、下覗くのは

 怖いですね(^_^;)

 橋を渡り終えると山沿いの上り坂を

 上がっていきます。

 ここらへんは交通量が多いので道を渡るときは

 気おつけましょう。

 いよいよ上り坂を歩いていくと岩殿城跡に行く

 入口が見えてきますよ。

 
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 こういう道を歩いていると戦国時代の人も

 歩いていたのかなと思いふけってみたり、

 城跡を訪れるたびその土地の歴史を肌で感じるのは

 本当に良いですね。 
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 上がって行く途中左側から下の桂川

 大月の町並みが見えてきます。

 ここからだと織田•徳川が攻めてきたら

 良くわかりますし、大軍が来たら恐怖しますね。

 
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後方の猿橋方向を見ると桂川が天然の堀のように

作用して、岩殿城に攻めてくる敵の侵攻を

防いでくれる様子がわかりますね。

東の方角から攻めてくるとしたら北条軍ですので、

ここで籠城戦をしたとしても周りを織田徳川北条に

囲まれる事になり、勝つことは困難になります。

 

 

岩殿城を築城した小山田氏と武田氏との関係

 

岩殿城を築城した小山田氏と武田氏との関係に

ついて軽く説明しますと、この甲斐国を武田氏が

統一する前は、元々武田氏と小山田氏は争う

関係にありました。小山田氏は甲斐国東部の

郡内有力国衆で独立して自分の領地を

治めていましたが、武田信虎(武田信玄公の父)の

時代に武田氏と和睦して従属国衆になり、

武田軍の中でも重要な重臣になって

戦の場では敵が恐れるほどの、

部隊を動かして奮戦しました。

しかし、武田家が衰退し滅亡の時には小山田氏は

自分の郡内の人々を守るために武田信玄公の

子である武田勝頼公を裏切り、裏切られた

勝頼公は現在の甲斐大和からすぐの

田野の地で織田軍と最後まで交戦するも

力尽き、現在の景徳院があった場所で

最後をむかえ武田家は滅亡します。

その後小山田信茂公は投降するも

織田に一族すべて処刑されてしまいます。

世間では主を最後の最後で裏切るような印象ですが

小山田氏が治めていた郡内の人々にとっては、

小山田信茂公のおかげで戦火に巻き込まれないで

すんだのですから、かけがえのない救いの

英雄なのです。



岩殿山にある丸山公園の絶景スポットとは?


ここからさらに登っていくと、門と

丸山公園のふれあい館が見えてきます。


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このふれあい館は中世の城をイメージして

作られており、一階と二階の一部では

大月市出身の山岳写真家の白籏史朗先生の

作品が見れます。岩殿城の資料や小山田氏関連の

事がよくわかるように、展示物なども

設置されています。

開館時間は午前9時〜午後4時

休館日は毎週月曜日で

交通アクセス

自動車だと中央自動車道大月IC.より

駐車場まで約20分

大月駅から徒歩で30分

年末は12月27日から翌1月5日まで。

駐車場は岩殿山の丸山公園市営駐車場が

高月橋近くにあります。

(令和3年4月から白籏史朗写真館の入場料が

 無料になります。)

このふれあい館の近くに本丸まで続く登山道の

入口がありますが、平成31年8月に

ふれあい館〜山頂間で落石があり、登山道の一部が

被害があったとの事です。

令和2年の夏に行われた調査でもまだ落石のおそれが

あるとの事なので、こちらからの登山は通行止めに

なっています。

山頂まで行かれる方は岩殿山の北側にある、

畑倉口から山頂までのルートがあります。

登られる方は十分に注意して、装備など整え

用意してから行かれる事をオススメします。

因みに岩殿山の標高は634mで東京スカイツリー

同じ高さです。

東京スカイツリーを徒歩で登るのですよ普通に

疲れますし、足場も悪いですから十分注意を(^_^;)

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丸山公園には他にも乃木希典の碑などもあります。
乃木希典は登頂した際に鏡岩を見て

(ウサギも登れないと)と感嘆したそうです。

たしかにゴツゴツした岩場は迫力があり、

登りづらいですね(^o^;)


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この乃木希典の碑の後方は小さな山みたいに

なっており、そこの上にベンチが設置されているので

お昼など休憩するにはもってこいです。

さらに少し進むと大月の町並みや富士山と桜が

展望出来る有名な場所があります。
↓そこから撮った景色です。
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春になり桜の季節になると桜と富士山と松の木が

一緒に撮れて、とても綺麗ですよ(^o^)

桜まつりなども開催されているのでこの時期しか

出会えない自然の美しさを体感できると思います。

 

では岩殿城跡を登頂前半はここまでです(^_^)/ おわり 

 

次回 岩殿城跡を登頂後半をお楽しみに。  

   後半では畑倉口方面から登頂を試みます。 

                   

                     

 

長篠城と関連史跡の旅 後編

 

 

 

三河支配の重要拠点の一つ吉田城へ

 

 こんにちわ(^^)/いよいよ最終回の

 長篠城と関連する史跡の旅でございます。

 今回は長篠城と直接関係する史跡では

 ありませんが、三河支配における

 重要拠点の一つである吉田城に行ってみます!

 帰りの新幹線の時間ギリギリまで

 見に行きますよ 。

 それでは豊橋駅から歩いて吉田城へ

 向かいたいと思います。


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豊橋の街なかには豊鉄市内線の路面電車

通っていて、吉田城に行くには

豊橋駅前から乗って

市役所前の駅で降りれば行けます。

電車賃は運賃全線均一大人180円 小児90円

路面電車の乗り方は前から乗って運賃箱に

現金で払うか、ICカード(PASMOも使えます。)で

タッチして払って降りるときはボタンを押す。

バスと同じですね👍

私の場合は市内を少しでも見ていきたいので

歩きです(^_^;)小雨が降っているので、

100円ショップに寄りビニール傘買い

少し早歩きで行きます。

駅前大通り進んで行くと田原街道が見えてくるので、

そこを左に曲がってしばらく行くと歩道橋が

あるので右側奥に歩いて渡り終えると、

豊橋市公会堂が見えてくるのでそこを左に

行けばすぐです。

吉田城の歴史を軽く説明しますと、

戦国初期の頃より松平氏と今川氏は

東三河における重要拠点の一つであった吉田城の

奪い合いを続けており、その度に城主が

代わっていきました。その後松平氏の力が

弱体化していくと、それをみた今川氏は

本格的に東三河国の直接支配に

のりだし、三河国の国衆にも協力させて、

統治支配を強めていきました。しかし、

永禄3年(1560年)5月今川義元桶狭間

敗れると、東三河においての今川氏の

影響力は低下しました。

その千載一遇の時を逃さなかった

松平家康後の徳川家康は吉田城を

攻略し、見事ここに今川氏の支配は

完全になくなりました。

その後武田氏との攻防戦を元亀2年の(1572年)~

天正10年(1582)まで三河遠江の両国で繰り広げて、

長篠の戦いが始まるまでは徳川氏は劣勢に

なっていました。

なかでも元亀2年には設楽郡の防衛網を突破した

武田軍が吉田城下近くまで攻めてきましたが、

徳川の家臣で城代の酒井忠次東三河国衆と

共に武田軍の猛攻をしのぎ、追い返すことに

成功しました。その後も酒井忠次は必死に

武田軍の侵攻を防ぐ事に尽力していく事になります。

この後長篠の戦いで敗れ勢いをなくした武田氏は、

滅亡していく事になり、武田氏を滅ぼした

織田信長明智光秀の謀反により命を落とす事に

なります。

その後は織田信長の家臣だった豊臣秀吉

天下人になり、その秀吉の命により

関東移封になった徳川氏の代わりに

池田輝政が吉田城の城主となります。

池田輝政播州姫路に移封されるまでの間に

城下町の大改修などの整備にも力を入れていました。

では城内に入ってみましょう(^^)/

三の丸口であったであろう入口から入り、

二の丸口門跡及び二の丸御殿跡を通り過ぎると、

本丸御殿につながる本丸門跡には石垣が

残されており、堀の様子もよくわかりますね。
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本丸御殿があったであろう場所まで来たら

しばし雨の中で立ち止まり吉田城の歴史を

肌で感じ、ここまで無事来れたことを心の中で

感謝していました。

↓これは本丸ではございません鉄櫓です。

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本丸にある隅櫓(鉄櫓くろがねやぐら)は

昭和29年に再建されたもので、

模擬再建されたものでも実際にその場にあると

嬉しいですよね。

私が訪れた時は中には入れませんでした(^_^;)

 

吉田城鉄櫓

入館料は無料

入館時間は10:00〜15:00まで

休館日は月曜日

 

本丸がある広場から北側に行くと北御多門跡や

川手櫓跡に腰曲輪跡などが見られます。
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吉田城は戦になれば背後の豊川近くに作られている

本丸がとくに弱点となるため、川沿いの石垣は

とくに高く作られています。

階段は急なので登り降りするときは

注意が必要です。


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鉄櫓後ろ側面の方の堀もしっかり見えて敵の侵入を

防いでくれるのがわかりますね。
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まだまだ城の全体の様子を見て回りところですが、

今回はこのくらいで吉田城を名残惜しいですが

去りたいと思います(^_^;)

皆様はゆっくり見て回ってくださいね。

私は少々せっかちなところと心配性なところが

あるので急いで戻りますε≡≡ヘ( ´Д`)ノ

また機会があったら訪れて今度は全体を見て回り

新たな写真も載せて更新したいです。

 

 

長篠及び設楽原合戦に関連するお土産を探して

 

帰りの楽しみのお土産探しはワクワクしますよね。

今回は長篠城と設楽原に関連するお土産を探して

いたのですが、なかなか見つけることが

出来ませんでした(^_^;)

唯一見つけたのが豊橋駅ビルにあるカルミア

2階南館の「みかわいいもの」というお店です。

東三河の特産品や工芸品などが販売されております。

長篠設楽原の戦いの(鉄砲巻き)が売っておりました!

本来なら長篠や設楽原のある現地で探すのが

一番ですが、今回は初回ということで

移動することに集中して余裕がありませんでした。

次回訪れた際は新しく調べて掲載出来れば

良いと思っています。

車で行かれる方は新東名高速道路から行ける

長篠設楽原パーキングエリアにある、

織田徳川連合軍の陣屋を見立てて作られた

建物などを訪れるのも良いですよ。

長篠陣屋食堂や戦国グッツが買えたり、

火縄銃の展示や馬防柵などがおいてあるエリアがあり、

歴史好きにはたまらないスポットになっております。

しかも歩いて隣接する織田信長本陣跡にも

行くことができます。

車で行った時はこちらの方も是非チェックして

おきたいですね。


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設楽原や長篠に関係してないですが「知多の梅酒」

「蒲群みかんサイダー」など美味しい飲み物や

お酒なども売っております。
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愛知といったら味噌煮込みうどんや手羽先ですよね。

定番のお土産ですが、自分で作って食べるのは

また一段と美味しくいただけるので、是非お土産に

買っていかれることをオススメします(^^)/
↓買ってきたものを作ってみました👍
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手羽先はオーブントースターであぶると

程よく焼けて良い香りが食欲をそそります。
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お土産で買うのも良いですが、

豊川や吉田城の鉄櫓を眺めながらの手羽先を

食すのも良いですね。

(注:現地で手羽先食べたかったなという願望です(^o^;))


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今回は初めて愛知県豊橋に降り立ち何とか

長篠〜設楽原に行き、できる限り史跡に

行きたかったのですが、やはり日帰りだと

時間がなくなって行けるところも限られて

来ますよね(¯―¯٥)泊まりがけで来る方がゆっくり

巡ることが出来て体力的にも楽に歩けると

思います。

(私は弾丸日帰り旅がほとんどです(^_^;))

次回来る機会がありましたら新しく写真や

記事を更新していきたいと思います。

長篠城の周りに築かれた砦にも装備を

整えて行きたいですね。

 

それではまた次回の歴史散歩の旅で

お会いしましょう(^_^)/     

長篠城と関連史跡の旅後編    おわり

 

  

長篠城と関連史跡の旅 中編

 

長篠城から設楽原へ歩いて行ってみよう!

 こんにちは(^^)/

 前回は初めて愛知県の豊橋を訪れて

 初めてのワンマン電車に乗って長篠城址から

 鳥居強右衛門が磔にされた場所まで行きましたね。

 今回は武田軍の設楽原への進軍を歩いて体験

 してみようと思います。

 長篠城址の周りにも散策できるコースがあるので、

 時間がある方は訪れてみてください(^_^)/


 
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では鳥居強右衛門が磔にされた場所から設楽原まで

歩いて行ってみましょう。

 

 
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途中の新東名高速沿いにある新昌寺には

鳥居強右衛門のお墓や、武田方の武将

山田五郎兵衛•横田十郎兵衛•高坂源五郎

和気善兵衛や

長篠城の兵を供養するために

建てられたお墓がありますので、是非

お立ち寄りくださいね。

新昌寺の正門を出て右に進んで行くと、

飯田線鳥居駅が見えてきます。

こういうところを散策する時はトイレがどこに

あるのか気になっちゃいますよね。

鳥居駅の側にトイレあるので安心ですよ。

鳥居駅無人駅なのでここから

ワンマン電車に乗られる方は乗るときの

整理券の取り忘れと、降りる時の小銭の

用意は注意しときましょう。

鳥居駅三河東郷まで190円約7分

鳥居駅のホームは長篠城方面と豊橋方面の

電車が同じホームに来るので、

間違えて乗らないようにしましょう。

ホームに立って右側に行くのが三河東郷方面です。

ワンマン電車は自動でドアが開かないので、

1両目の後ろのドアから点滅ボタンを押して

入っていきましょう。

いつまでもドアが開くの待っていると、

そのまま発進してしまいますからね(T_T)

ホームに乗る場所が描かれていますので、

わかると思います。


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鳥居駅の時刻表も載せときますね。

ワンマン電車の乗り方などの

詳しい説明は長篠城と関連史跡の旅 前編にも

書いてあるので、参考にしてみてください。

ここから無理せず電車行くのも良いですし、

体力に自信がある人は歩いて設楽原がある

三河東郷の駅まで歩いて行ってみましょう。

では鳥居駅を通り過ぎてずっと直進していくと

工場地帯が左右に見えてきますその先には

右側の方に永観寺があり近くに武田勝頼

長篠の医王寺から戦地本陣をこの地に移した

とされる場所があります。



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左側には和楽亭というラーメン屋さんもあって

食事をするには良いです👍

和楽亭から少し歩いて横道に入っていくと

武田軍が軍議開いた場所があり、

決戦か一時撤退かを

話し合い「決戦」という結論に至って、

山県昌景土屋昌次内藤昌豊馬場信春

宿将が水場で最後の別れの盃を交わした場所だと

されています。


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飯田線沿いに戻って歩いていくと

道の駅もっくる新城が見えてきます。

ここには足湯があるので疲れた足を

癒やしてくださいね(^^♪

現代の靴で歩いても足痛くなるのに、

戦国の人たちは草履を履いて歩いていたのだから、

尚更痛いと思いますね。

ここには売店やお食事をとるとこもあります。

つぐやさんでは五平餅も売ってますし

三河製麺さんでは、ししラーメンが食べられる

みたいです。(猪ラーメン)

私は例のごとく時間を気にしながら歩いていたので、

食より史跡巡りを優先しました。

私の食事は手軽に食べられる携帯食品(^_^;)

2回目3回目訪れたときは是非グルメを堪能

した写真を載せたいですね。

時間に余裕がある方は是非お立ち寄りください。

さてさてそれではここからは道路沿いの路側帯を

通っていきます。



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ここらへんは人一人

通れるくらいの幅なので注意しながら

歩いていきます。路側帯を進んで

歩いていくと左側に歩道が見えてきます。

ここまで来ると安心ですね。

そのまままっすぐ進むと反対側の右側に

三河東郷の駅が見えてきます。

鳥居強右衛門の磔の場所から三河東郷駅まで

歩いて3.6km1時間20分位ですね。

 

運命の戦い設楽原決戦!!

 

この三河東郷から南側の勝楽寺付近で武田軍の

山県昌景隊が唯一馬防柵が無かった所を

攻撃しようとして、徳川軍の

大久保隊忠世•忠佐の兄弟と激戦を繰り広げた

勝楽寺前激戦地があります。



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更に南に行くと山本勘蔵信共のお墓があります。

山本勘蔵信共はあの武田軍の軍師で知られる

山本勘介の子であり、まだ20歳という

若さで討ち死にしました。

もともとは高坂昌澄と一緒に長篠城監視隊に

ありましたが、武田勝頼が設楽原での決戦を

決めたことにより、急いで戦地に

駆けつけたところ時すでに味方は総崩れになり

山本勘蔵信共は単騎で徳川本陣に切り込み

討ち取られてしまいました。

私は山本勘介が好きなので是非訪れたかった

ですが、時間の都合で設楽原決戦地の馬防柵の

方面に向かうことにしました^_^;


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設楽原に向かう途中道路の壁面には

織田•徳川の鉄砲隊がまさに撃とうとしてる

様子が見てわかりますね。


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現地には「合戦いろはかるた」48句というのが

設置されていていますので、全部見て回るのも

良いですね。いろはかるたを詠めば戦国の世で

必死に戦って生きた武士の姿を思い浮かべる事が

できますよ。

 「合戦いろはかるた」

い、徳川家康本陣 ろ、名高前激戦地 

は、羽柴秀吉陣地 に、設楽原古戦場

ほ、火縄銃弾丸採集地 へ、馬場美濃守信房の墓

と、設楽越中守陣地 ち、原隼人佐昌胤之碑前

り、五味興惣兵衛貞氏之墓 ぬ、柳田前激戦地

る、高坂昌澄の墓 を、甘利郷左衛門尉信康之墓

わ、瀧川助義•笠井肥後相討ノ地 

か、山本勘蔵信共之墓 よ、鳶ヶ巣山奇襲隊松山越

た、大宮前激戦地 れ、馬防柵左端

そ、牧野文斎記念公園 つ、土屋昌次戦死の地

ね、設楽原戦没者霊場 な、内藤昌豊陣地及び墓碑

ら、鈴木金七誕生の地 

む、小屋久保(戦場地域住民避難の地)

う、鵜の首(武田右翼隊進軍地)

ゐ、大宮川(一重柵) 

の、茶臼山公園•織田信長戦地本陣跡

お、信玄塚(大松•小松) く、首洗池

や、山県三郎兵衛昌景之碑 

ま、信長賞詞地コロミツ坂 け、清井田訣盃の地

ふ、信玄塚(火おんどり) こ、甲田

え、馬防柵 て、織田信長本陣極楽寺

あ、武田勝頼観戦地 さ、丸山

き、広瀬の渡•旧渡船場跡 ゆ、高坂昌澄の墓

め、信玄祖師堂跡 み、真田信綱墓•真田昌輝

し、信玄塚(大松•小松) ゑ、織田信長本陣極楽寺

ひ、設楽原決戦場碑 

も、信玄塚(火おんどり) せ、大久保兄弟陣地

す、雁峰山登り口•雁峰山額岩峠

京、勝楽寺前激戦地

高坂昌澄の句は2句あり、「ゆ」の句は昌澄の事を

詠んでいて、「る」は昌澄の父高坂弾正の事を

詠んでいます。高坂弾正川中島海津城におり

設楽原決戦には参加していませんでしたが、

勝頼公が甲斐に戻る際に身なりを整えさせて

帰陣させたと言われています。

甲斐国の民に敗戦してボロボロになった姿を、

見せないようにとの心配りをしたのですね。

高坂弾正という人は本当に素晴らしい

武将です。(TT)

あと信玄塚(大松•小松)と信玄塚(火おんどり)も

2句あります。

それでは先に進みましょう(^_^)/〜

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柳田前の激戦地にある橋には武田騎馬隊が突撃して

織田•徳川の鉄砲隊が狙っている姿が

レリーフとして描かれているのは嬉しいです。

周りの景色と良く馴染んでいますね。 

柳田の激戦地は武田軍の中央隊が置かれた場所で、

馬防柵から押し寄せる敵兵と奮戦した甘利信康

でしたが最後には無念にも自ら自刃してしまいます。


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田園と連吾川を挟んで右側の小高い丘あたりに

武田軍が布陣して左側の馬防柵の後ろに

織田•徳川連合軍が布陣していました。

設楽原決戦場には両軍の激突の様子が描かれた

屏風などもあり、わかりやすかったです(^_^)


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すぐ近くに馬防柵が設置されていて凄い迫力でした。

このようなぬかるんだ田んぼの中を歩くにしても

馬で突撃するにしても大変だったと思います。
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武田軍の突撃を防いだ鉄砲構えも再現されて

いて見応えありました。

数では倍以上の兵力でも

ここに戦国最強の武田軍が押し寄せていたかと

思うと、織田•徳川の兵も恐ろしかったに

違いないですね。
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3万の兵と1万5千の兵がこの場所で戦っていたとは

思えないほど、辺りは静かな場所で良いところです。

この場所で幾多の命のやり取りが行われていたかと

思うと心苦しくなり、戦国の世の厳しさをひしひしと肌で感じる事が出来ました。


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馬防柵には武田の武将の土屋昌次がこの場所で

戦死したとされる慰霊碑が建てられています。

最後の最後まで戦い抜いた甲州武士の

強い意志が感じられて心が震えました。

色々な想いを感じながらこの場所を後にして、

設楽原の歴史資料館に行きたいと思います。

歴史資料館は武田軍が布陣していた丘の上の方に

あるみたいです。



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設楽原歴史資料館は

開館時間は午前9時から午後5時(入場は午後4時30分)

休館日は毎週火曜日

年末年始(12月29日から1月3日)

入館料 個人一般330円•小中学生100円

    団体(20名以上)一般220円•小中学生50円

 

障害者手帳または療育手帳の交付を受けた方及び

その介護者は入館料無料になります。

(設楽原歴史資料館と長篠城址史跡保存館の共通券)

などの共通観覧料もあります。

    個人一般440円•小中学生150円

    団体(20名以上)一般330円•小中学生80円

2箇所行く方には便利ですね。

公共機関ご利用の場合豊橋駅からJR飯田線

三河東郷駅」(50分)下車、徒歩15分程度です。

自動車来る場合新東名高速道路新ICから5分程度。

駐車場も広いです。

 

    

資料館前の銅像は幕末の開国に貢献した

外国奉行だった岩瀬忠震銅像でございます。

この資料館には設楽原決戦に関する貴重な

資料や岩瀬忠震について詳しくわかる資料も

置いてあり、改めて勉強することが出来ます。

火縄銃のレプリカも置いてあり、実際に手に持って

重さを感じることもできますよ。

けっこう重かったです(^o^;

屋上にも行くことが出来て、設楽原を

高いところから観察することが出来ます。


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丁度何かを燃やした煙なのか狼煙のように

見えたりして、色々想像してしまいました。

 

戦場に散った武田方の武将のお墓参り

 

この資料館の近くには信玄塚があり、

設楽原の戦いの戦没者を埋葬した塚で

今でも大切に供養されています。

毎年8月15日には長篠•設楽原戦没者を慰めるための

「火おんどり」という火祭りが盛大に行われますよ。



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この地に訪れる事が出来た事を深く

感謝しながら黙祷しました。

この信玄塚の近くには原隼人佐昌胤公の

お墓もあるので行ってみましょう。

お墓の場所は畑の端の方にあるので

迷惑にならないようにお参りしましょう。


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設楽原歴史資料館の下の通り沿いには

山県昌景公のお墓のある場所がわかる

看板が設置されています。

 

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奥に進んで上の方に上がっていくと、

山県昌景の陣地跡付近に建てられた

お墓があります。


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右から山県昌景のお墓
その隣は山県墓と書かれていましたね。
その隣の隣が山県甚太郎昌次(三枝昌貞の弟)と

従士名取又左衛門道忠のお墓でその隣が

高坂又八郎助宣のお墓です。

山県昌景は徳川の陣に何度も攻めかかりましたが

体中に銃弾をうけてしまい、戦うことが

出来なくなってしまいます。

山県昌景は家臣の志村又左衛門に首を斬らせ

持ち帰るように頼みました。

(敵から取り返したという説もあります。)

志村又左衛門は土地の者に遺体を埋葬して

もらいたいという手紙と小烏丸という小刀を

残し、首を持って甲斐まで走りました。

因みにこの志村又左衛門という人物は

志村けんさんの祖先です。

今回時間の都合ですべての武田方の将の

お墓に行けませんでしたが、

次回来たときは他の武将のお墓も

お参りしたいと思います!

丁度三河東郷の駅に向かう途中から

小雨が降り始め、涙雨の如く悲しい

気持ちになりましたが、

本当にこの場所に来れて良かったと思いました。

是非皆様もこの設楽原を訪れて、

甲州武士の最後の生き様を肌で感じて

みてはいかがでしょうか(^_^)

今回は行く場所が多いので、時間の

問題などで長篠と設楽原に関する

お土産などを詳しく見ることが

出来ませんでしたが、次回訪れたときの

楽しみにとっておこうと思います。

では三河東郷駅から豊橋に戻りたいと思います。

ワンマン電車に乗るときは整理券を忘れずにとって

豊橋駅の整理券自動精算機で払いましょう。



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本当は山本勘助が生まれた牛久保武田信玄公が

狙撃された野田城も行きたかったのですが、

残念ながら無理でした(^_^;)

長篠城址と設楽原周辺には史跡が広範囲に

あるので、レンタサイクルなどの移動手段が

あると便利だなと思いました。

車でも行けますが、道の狭い場所などが

あるので、バイクか自転車のような小回りが

きく乗り物の方がよいですね。

 

長篠城と関連史跡の旅 中編 おわり

 

次回長篠城と関連史跡の旅 後編へつづく(^^)/