ユキスナの歴史散歩

戦国史跡巡りが好きで色々な場所を訪れては写真を撮ったりしています。その中で面白い事や場所やお土産とか気がついたことを記事にしていきたいと思います。歴史散歩の中ではカエルとして登場するのでよろしくお願いします。

生誕500年!武田信玄公の生涯展

 

 

こんちには(^_^)/毎度おなじみのユキスナです。

今回は私の尊敬する武将である甲斐の虎

武田信玄公が生きてきた歴史がわかる

[武田信玄の生涯展]を見るべく山梨県

山梨県立博物館に行って来たことを

記事にしていきたいと思います。

 

 

ゆったり街歩きしながらまったり

 

私は今回新宿駅から石和温泉駅まで

特急あずさで1時間半乗って移動しました。

都心からも近いですので、気軽に来れますね。


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では石和温泉駅から山梨県立博物館に行く前に

駅近くの足湯に寄っていきたいと思います。

初めて足湯入りますが、駅近くにあるのは

嬉しいですね。バス停も側にあるのでバスが

来るまで足湯に入りながらゆったり待つことが

できます(^^♪しかも無料!!

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足湯に入れる時間は

午前10時〜午後6時(4月〜9月)

午前10時〜午後5時(10月〜3月)

あまり早い時間に行ってもお湯が溜まって

ないので、そこは注意してください(^.^;


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階段の手すりや段差解消されていたり

車椅子スロープも有るので車椅子の方も

安心して入れます。

足湯に入ったあと足を拭くのにタオルが

必要な場合は石和温泉駅観光案内所で

タオルが有料で販売されていますよ。

効能は神経痛、筋肉痛、打ち身、慢性消化器病

   冷え性疲労回復、痛風

因みに石和温泉の歴史を少し見てみると

石和温泉の地域は天正10年の(1582年)に

織田信長の手勢によって、石和八幡神社、観音寺、

八田屋敷(武田家の家臣の八田家)ともに焼失

してしまいます。

武田家の滅亡により大事な歴史的遺産が

織田軍の手によって焼失してしまったのは

悲しいですね。
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それでは山梨県立博物館に向けて

出発しましょう(^^)/

駅前通りを南に進んで行きましょう。


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途中に笛を吹いている銅像があったので

調べてみたら、笛吹権三郎さんだとわかりました。

笛吹権三郎さんは上釜口の芹沢というところに

母親と二人暮らしをしてました。

ある日大雨が降って小西川が氾濫し、権三郎と

母親は濁流に飲み込まれてしまいます。

若い権三郎は何とか助かりますが、母親が

流されて見つけられなかったそうです。

権三郎は得意の笛の音で母親に聞こえるように

吹き続けましたが、結局見つけられずとうとう

権三郎自身も探してる途中で疲れで足を滑らせ

力尽きてしまったのです。

その後にこの川では綺麗な笛の音が

聴こえてくることから、笛吹川と呼ばれる

事になったそうです。

凄いお母さん想いの優しい人だったんですね。

普段気に留めないような川の名前の由来など

足を止めてじっくり眺めたり、調べたりして

知ることは本当に素晴らしい事だと思いました。

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では権三郎さんに別れを告げ目的地に向け足を

進めて行きましょう。

少し進んで行くと石和温泉停車場線

国道411号が見えてきますから、

信号を渡って左に曲がって歩いて行きます。

国道沿いを歩いてると駅前で見た足湯と

同じタイプの建物を発見!

こんな所にもあったのかと驚きました。

バスに乗って行ってたらわからなかったな^_^;

この石和小林公園の名前にもなっている

銅像の小林中(こばやしあたる)は日本開発銀行

初代総裁も務め財界四天王と呼ばれるほどの

お偉い方で、この石和町の名誉町民にもなってる

地元の有名人らしいです。

この場所は旧邸宅だということで銅像

あるのですね。なるほど(・o・)


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この場所の足湯はお湯が程よく溜まっていて、

気持ち良さそう。駅前の方は時間が早かったので

お湯が溜まってなくて無念でしたが、ここで挽回

できそうw

こちらの足湯は歩いて足ツボマッサージができる

道があり、イタ気持ち良い感じが素晴らしい〜♪

バス停も近くにあり待つのにも良いし

散歩につかれたら足湯最高すぎます✨


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いつまでもいたい気持ちですが名残惜しくも

時間がないので、出発したいと思います。

少し進んで行くと鵜飼(うかい)橋通りが

見えてくるので

右に曲がって笛吹川に架かる鵜飼(うかい)橋を

渡っていきます。

この川が笛吹川なのかと権三郎さんの事

思い出しながら、川の流れが笛の音に聴こえないか

耳を澄ませながら渡っていきました(^^)

そしてここからしばらく歩いて行き、

甲州街道勝沼バイパスを通り過ぎたところに

いよいよ目的地の山梨県立博物館

見えてきました!!

 

山梨県立博物館で信玄の生涯展を堪能

 

信玄公がお出迎えしてくれました〜
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初めて訪れましたが立派な建物ですね。

武田菱の旗や孫氏の旗が掲げられていて

入る前から興奮します!


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検温とアルコール消毒をきちん済ませて

入館しますね。

山梨県立博物館は常設展示観覧料は一般で

520円なのですが、武田信玄の生涯展は

1000円でした。

展示場入口では信玄公と一緒に写真撮影

できたり嬉しさいっぱいです。
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大きな武田二十四将図などもあり入る前から

ドキドキでした。

その他にもTKD総選挙(武田の武将)などもあり、

私は山本勘助さんに一票入れてきました(^^)w

後で知ったのですが、結果は

1.山本勘助 2.武田勝頼 3.武田信繁

1位は私が推していた山本勘助さんでした!!

嬉しい〜(^o^)素晴らしい👏

TKDお城総選挙(武田のお城)の方は

1.高遠城 2.要害山城 3.海津城でした!

因みに私の推していた岩殿城は4位でした。

そしていよいよ中に入って行きますよ。
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1.誕生から家督相続

初めに武田信虎公の像(信玄公の父親)

大井夫人の像(信玄公の母親)を

見ながら、信玄公の幼少期に使われていた

木馬の像?小さい子供が跨って遊んでいたであろう

玩具のようなものですね。

信玄公がこれに乗って遊んでいたと思うと、

凄く身近な存在に感じて親しみがわきました。

この頃武田家と今川家は激しく争っていて、

その争いの中避難していた大井夫人が要害山城で

勝千代を生みました。後の信玄公です。

この後信虎公は今川軍を甲斐の国から一掃して

事実上甲斐国統一を成し遂げました。

展示には貴重な信虎公の発給文書などもあり

食い入るように見ていました。

その他にも信玄公が父信虎公を駿河

追放した際に今川義元公が出した書状など

見ることができ感激でございます。

武田家の本拠甲府の古府中絵図など

信玄公の御館形図など城下町遺跡からの出土品も

見れました。

その当時使われていたお皿とか見ると、

色々想像しちゃいました(^^)

2.初めての敗戦

甲州法度之次第の条文など、テレビや書籍で

見たことありますが、実際に見ることなど

なかなか無いことなので、じっくり見てました。

信玄公、生涯初の敗戦

上田原の合戦で村上義清と対峙した信玄公は

重臣板垣信方甘利虎泰ら優秀な家臣を

失い、信玄公も手傷を負ってしまった程の

敗戦でありその戦の結果を村上義清が書状として

上野衆の小林氏に出して、味方につくように

要請した書状も展示されていました。

敗戦直後に武運長久のため作られた狛犬

像があったのですが、どことなく顔が

優しい感じがしてほっこりしました。

私個人的に山本管助が好きなので、

信玄公が山本管助に伊那郡での

働きを賞して百貫文の恩賞を与えることを伝える

書状が見れて良かったと思います。

武田軍の資金である金が遺跡から出土したものなど

その当時の輝きを失うことなく、現在でも

魅了するものであったのが見てよくわかりました。

↓密にならないように矢印通り移動でございます✨
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3.川中島の戦い

信濃支配の最大の障壁である信玄公

最大のライバル!!越後の龍上杉謙信

一般的に知られている法体で黒い頭巾を被り

軍配を持っている肖像画など拝見できました。

上杉謙信川中島の戦いで信玄公と戦い

小田原攻めでは大規模な軍事行動を行ったり

私的な戦いを好まず義の戦を良しとした

戦国武将としては珍しいタイプの武将ですが、

そうした人間性が多くの人々を魅了するのも

よくわかる展示内容でした。

書状には川中島の合戦の初期の頃の物や

第四次合戦に至るまでの物が残っており、

その時の緊迫した状況などが伝わってきます。

川中島合戦の一騎打ちの合戦屏風は有名ですよね。

その他にも武田家伝来の家宝楯無鎧の復元模造や

信玄堤絵図など貴重な資料が見れて良かったです。

信玄堤がその地域の人達を守り、地域の住民も

信玄堤をメンテナンスするなど、無くてはならない

存在だということがよくわかる内容でした。

4.上野·駿河

川中島の合戦以降信玄公は上野に侵攻して

行くことになります。

武田家と北条家は協力し関東に出兵して

領土を拡大させていきますが、やはり

ここでも上杉謙信が大きく立ちはだかります。

謙信が北条方の下野祇園城の小山秀綱を攻めて

降伏させたのを知った北条氏康は、

信玄公が松山城攻略後に帰国して油断したから

城が落とされたのだと言ったと言います。しかし

信玄公は書状で「関東の小山が落ちたのは関東の

武士が不甲斐ないからだと北条氏康に伝えました。」

書状の内容は信玄公がその時の関東武士を

どう評価していたのかわかる貴重な資料です。

永禄八年の十月頃発覚した嫡男の義信による

クーデター事件に関する新しい資料も

興味深かかったですね。

高野山の武田家菩提所の宿坊の成慶院から

供養帳が見つかったことで、

クーデターに加わっていたとされる

飯富虎昌さんの命日と成敗された時期が一致

するのがわかって、信憑性が増したのが

わかりました。

いよいよ信玄公は駿河に侵攻!

駿河駿府を占領したあとに家康に出した

書状は感謝の気持ちも込めながら、懸川城を

早く落とすようにとの催促でした。

こうした事態をよく思わない北条家は

越後と同盟を結んで武田包囲網を築いていきます。

武田家も勝頼と信長の養女と婚儀を結び

足利義昭に依頼して上杉との一時的和睦など

色々準備していたのがわかる書状など

この目で見ることができました。

そして信玄公は直接対決すべく小田原攻めに

取り掛かることになります。

武蔵国から侵攻し北条の諸城を

攻撃したのち南下して、小田原を包囲するも

大規模攻撃はせず、そのまま撤退します。

しかし北条軍はこれを見逃さず追い打ちをかけ

三増峠で武田軍と激突することになります。

それが三増合戦です。三増合戦図などで見ると

どこに布陣していたのかがよくわかります。

結果は武田軍の勝利で終わりました。

5.天下人との戦い·信玄の死去

ここからはいよいよ二人の天下人との戦いが

始まるのです。

北条家との戦は氏康が亡くなり、同盟が復活

するのですが今川家を打倒するため手を組んだ

家康との関係が、遠江の所領を巡って争いになり

ここに織田徳川VS武田の戦が勃発します。

まずこのコーナーに来て一番見たかったのが、

信玄公の菩提寺である恵林寺に保管されている

不動明王坐像!!信玄公をモデルにして

作られていると言われており、信玄公の髪の毛が

像の髪の彩色に使われているのには驚きました。

不動明王のお顔は厳しく見えますが

人々を優しく見守る覚悟ある姿であり、

まさに信玄公と重なる部分があり感動しました。

信玄公も川の氾濫や度重なる飢饉から

人々を守りたいという気持ちだったので、

信玄公も不動明王様を大事になさって

いたのかもしれませんね。

他にも貴重な仏像、勝軍地蔵騎馬像など

見れて感激でした。

そして戦は武田の西上作戦により徳川と

遠州三方ヶ原合戦に突入していきます。

この当時の書状に織田信長の武田家との断行が

書かれたものもありました。

武田軍は徳川の領地三河浜松城近くまで

行きますが、素通りして先に進んで行ったと

言われています。その様子を見て徳川家康

このまま何もせず行かせれば、国衆の離反を

招くと恐れ武田軍に勝負を挑むことに

なりますが、予想通りに武田軍が反転して

徳川軍に襲いかかる事になり、武田軍の

圧勝となりました。

その時徳川家康は急いで浜松城に逃げ帰り

あまりの恐怖で馬上で脱糞してしまうという

屈辱をあじわいます。

その時のことを忘れないように「しかみ像」を

描かせたとも言われています。

複製のものでしたが見れました!良かったです。

ここまでは何とか進軍してきた武田軍も

信玄公の死去により、やむなく甲斐信濃

撤退することになります。

信玄公の死は3年間は隠しておき白紙の花押

だけ用意して、知られぬように署名を作成

して生きているようにみせていましたが、

やはり急に進軍を止めて甲斐に戻ったことは

関係各国が疑り、死亡したのではないかと

様々な書状が飛び交う事態になった事は、

資料を見てもわかりました。

その後武田家の家督を継いだ武田勝頼公は

奪われた長篠城を取り返すべく織田徳川と

戦う事になりますが、重臣の多くを失う

大敗をしてしまいます。

そこから急速に武田家の力は衰えていき、

天正10年(1582)3月11日にとうとう武田家は

山梨郡の田野で武田勝頼公が自刃して

滅亡してしまいます。

私個人の感想ですが、

ただ滅亡したという話ではなく

裏切りや離反が多かった時に

最後まで勝頼公に付き従った武田家臣の中でも

土屋惣蔵さんの奮戦や謹慎になっていたにも

かかわらず、主の危機に参上した小宮山内膳さんの

ような忠義の心を持った人達の事も決して忘れては

ならないと思いました。

(武田勝頼公最後の戦いの記事はまた次回

書きたいと思います。)‚

 

6.信玄の遺産

信玄公の死後重臣であった高坂弾正

「甲陽軍艦」の作成に取り掛かることになり

高坂弾正が死去したあとは、甥の春日惣次郎が

完成させます。

甲陽軍艦は後の世の武士に多くの影響を与え

人気があったのは本当に凄い事だと思いますね。

武田家が滅亡したあとに徳川家の家臣となった

柳沢氏には後の徳川綱吉側用人として使えた

柳沢吉保がいますが、柳沢吉保は信玄公を

尊敬しており、甲斐国恵林寺を整備したり

武田家再興のために尽力しました。

柳沢吉保像も立派でした。

柳沢吉保といえば赤穂浪士の討ち入りで

有名であり、良い印象がなかったのですが

一変目線を変えて柳沢吉保という人を

調べていくと、武田信玄公を尊敬していたり

武田家のために一生懸命に尽力してきた姿は

本当に素晴らしい功績だと思います。

偏った目線で見るのではなく広い視野で

その人物の実像を捉えることは、

本当の意味での歴史を知るということでは

ないでしょうか。

後の世の人々は信玄公だけではなく、

その武田家臣団にも尊敬の念を持ち

武田二十四将図は大変人気があったと

思われます。

明治頃から信玄公への人々の想いから

武田神社の創建が言われてきましたが、

とうとう大正時代に念願の神社本殿が

完成され、人々は大いに喜びました。

その後信玄公の銅像甲府駅前に設置

したり、信玄公を称えるために信玄公祭りも

開催される事となり、本当に山梨の人々の

中で信玄公という存在は大きなもので、

尊敬され愛される存在だということが

よくわかる資料が多かったです。

この信玄公生誕500年の記念の年に

山梨県立博物館に来れたことは

私の人生の良い経験となり、

この貴重な時間は宝物になりました。

このような展示をしてくださった

山梨県立博物館の方々や関係者様に

本当に感謝を申し上げたいです。m(_ _)m

このような貴重な展示物を拝見できる

山梨県立博物館に皆様も訪れてみては

いかがでしょうか(^^)/

                                                                  

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信玄公の生涯展お土産

 

山梨県立博物館の期間限定信玄公お土産コーナーで

購入した武田信玄の生涯展の内容がわかる本も

買えて満足でございます。

紙製のクリップや木製のキーホルダーも

素晴らしいです。

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  生誕500年! 武田信玄公の生涯展   おわり