ユキスナの歴史散歩

戦国史跡巡りが好きで色々な場所を訪れては写真を撮ったりしています。その中で面白い事や場所やお土産とか気がついたことを記事にしていきたいと思います。歴史散歩の中ではカエルとして登場するのでよろしくお願いします。

信玄公に会いに武田神社へ 前編

こんにちは(^_^)/信玄公生誕500年の記念すべき年に

山梨県甲府市の武田神社と信玄ミュージアムに

行ってみます!

 

信玄ミュージアムに行ってみよう!!

 

 

甲府駅までのアクセス

 

電車の場合

東京方面

特急電車でお越しの方はJR中央線で

新宿駅〜甲府駅まで1時間30分です。

長野方面

松本駅〜甲府駅までJR中央線の特急電車で

1時間です。

静岡方面

静岡駅〜甲府駅まで身延線で2時間20分です。

 

高速バスの場合

新宿バスターミナル新宿〜甲府線で2時間10分甲府着

静岡駅前静岡〜竜王•甲府線で2時間30分甲府着

名古屋駅名古屋〜竜王•甲府線で4時間甲府着

大阪(あべの橋)京都•大阪〜甲府線で9時間甲府着

 

東京から特急電車に乗ること1時間30分で

甲府駅に到着!!

改札でて右側の北口方向に行くと

信玄公生誕500年を記念して無料の展示が見れます。

「信玄公生誕の地、甲府展」

会期は2020年12月20日〜2022年1月31日までなので

この機会に訪れてみてはいかがでしょう(^^)

信玄ミュージアムに行く前に武田氏の事を軽く

学んでから行くと、より楽しくなりますよ。

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それでは信玄公の像に挨拶してから、

武田神社(躑躅ヶ崎館)に行ってみましょう。

信玄公の像は甲府駅南口の方にあり、

信虎公の像は甲府駅北口の方にあります。

甲府駅から武田神社まで徒歩で行くと約30分
かかります。

武田神社方面にバスで行くと甲府駅北口2番

乗り場から10分くらいで着きます。

バス賃は片道230円です。


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今回は徒歩で向かいたいと思います。

甲府駅北口を出た道をまっすぐ進んでいくと

武田通りなので、当時の様子を思い浮かべながら

歩いて行くのも良いですね。

通り沿いには武田二十四将の御屋敷跡が

あったであろう場所に、案内板が設置されています。

ゆっくり歩きながら武田軍の強さの象徴である

武田家臣団の事をよく知ることができ

わかりやすく書いてあるので、ありがたいですね。

他にも武田通りからは信玄公の正室である

三条夫人のお墓がある円光院に行けたり父親である

信虎公の菩提寺大泉寺にも行けますし、

信玄公が亡くなった時に仮埋葬のため火葬した

場所である信玄火葬塚もあります。

信玄火葬塚の近くには武田家が滅亡したあと

織田信長が甲州に派遣した家臣である河尻秀隆の

首塚があります。

河尻秀隆は暴政を行い、織田信長が本能寺で

討ち取られたあとに蜂起した甲斐国の大衆に殺されて

しまいました。

信玄公が火葬された場所の近くに敵方の武将の

首塚があるのも驚きですね。

 

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そしていよいよ武田通りをまっすぐ進んで右側に

信玄ミュージアムが見えてきます(^^)/

この施設は2019年4月5日(金)にオープンしたので

綺麗な施設ですね。

開館時間 午前9時〜午後5時

休館日は 火曜日 12月29日〜31日

観覧料は

    一般   高校生以下(障害手帳お持ちの方) 

個人  300円  無料 

団体(20人以上)240円

駐車場は武田神社参拝者用スペースに利用可です。

他にも2箇所駐車場があるみたいです。


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館内は入ってすぐの所に総合案内所があり、

少し進むと無料展示室にその先に有料展示室が

あります。

入口にある信玄公のイラストが勇ましく

格好良いですね(^^)


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無料展示室では甲府の城下町の紹介や

躑躅ヶ崎館の全体がわかる模型案内に、

甲斐の国を代々統治してきた武田三代の歴史など

わかりやすくパネルに書かれています。

他にも武田氏が滅んだあとの甲斐の国を統治した

武将なども紹介されています。

もっと詳しく知りたい方は有料特別展示室に

行かれてみてください。

こちらの展示室は最終の入館時間は4時30分です。

そしてここでは御城印も入手できますが、

有料入館したあとに希望者全員に無料配布

しているらしいです。

御城印だけもらうことはできないらしいです。

あくまでも有料で入って欲しい人には配る

形ですかね。

信玄公生誕記念の数量限定御城印も

あったらしいですが、1521枚限定だったので

私が行ったときはもうなかったですね(¯―¯٥)残念

1521枚という枚数にも意味があるらしく

信玄公が生誕した年が1521年だったので、

西暦の枚数だけ配布されたのですね。

それでも通常版が配布されているので是非

訪れた際はゲットしてみてください!


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有料特別展示室では今までの甲斐の国の統治の

年票などが展示されていて、

歴史の流れがよくわかります。

躑躅ヶ崎館から出土したお皿や敷地内から

全国初発見された全身の馬の骨など

貴重な展示物が見れますよ。

馬の骨はよく調べると普通の農耕馬とかではなく、

良い食べ物を食べていたと思われる筋肉質で立派な

体格の馬で、大将クラスの人物が乗っていたと

思われます。もしかして信玄公が乗っていたかも

しれませんね(^_^)そう思うと本当に凄い!

時を超えて私達の目の前に現れてくれたことは

感激の一言です。

そして展示場の奥に行くと映像と音楽で

甲斐の国の歴史から始まり、信玄公が生誕してから

国を強く統治していく過程などわかりやすく

解説して教えてくれるので、ずっと観ていたい

気持ちになります。この映像を観てから実際に

武田神社に行って当時の様子を肌で感じながら

敷地を散策するとより武田家の歴史を学ぶことが

できますね。

では旧堀田古城園へ行ってみましょう。

有料展示室を出て右側の方に進むと、

旧堀田古城園の主屋、長屋棟、離れ3棟があり、

主屋は休憩室や講座を開いて学習したりできる

みたいです。

離れは茶室としても活用されてます。

この旧堀田古城園は元々割烹料亭として作られた

らしいですね。

昭和初期の建築様式としても価値のある建物なので

こちらもご覧ください。

何か木造建築の風合いが人に優しい感じがして

私は好きですね(^_^)

館内を見学してるとお腹も空いてくると思いますが、

そんなときは長屋棟で飲食もとれる

蕎麦•cafe由布姫さんに寄ってみてはいかがでしょうか


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メニューには武田三代の名前が入ったお蕎麦や

うどんにラーメンがあり、あの三国同盟を結んだ

今川義元公のラーメンや信玄公の永遠のライバルで

ある上杉謙信公ラーメンもあるので、本当に歴史

好きにはたまらないですね。

他にもデザートには桔梗信玄ソフトや

桔梗信玄餅生ロールとコーヒーのスイーツセットなど

少し休んで甘いもの欲しい人にも嬉しい

カフェメニューもあります。

営業時間は平日10:00〜15:00土日祝10:00〜17:00

定休日は火曜日で祝日の場合はその翌日で

臨時閉館休館の場合も有ります。


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お蕎麦•カフェメニュー

❖信玄肉玉そば・うどん770円(上段一番左)

❖信虎エビ天玉そば・うどん870円(上段左から二番目)

❖勝頼とろろ昆布玉子そば・うどん590円(下段左)

❖勘助カレーそば・うどん820円(下段左から二番目)

❖由布姫とろろ季節の麩そば・うどん770円(下段右)

❖謙信あごだしラーメン610円(上段一番右)

❖義元コーン味噌ラーメン750円(下段右から二番目)

 

❖コーヒー&スイーツセット540円

    (桔梗信玄餅生ロール)

❖桔梗信玄ソフト510円

❖黒蜜きな粉タピオカ510円

❖黒蜜抹茶タピオカ530円

❖黒蜜きな粉ラテ340円

❖黒蜜抹茶ラテ340円

❖コーヒー360円❖紅茶360円❖ココア360円

❖甘酒330円❖生クリームトッピング50円

❖ザ・プレミアム•モルツ560円(ビール)

価格は税込みでございます。

入口入ってすぐの所で食券を買って、右側の

渡し口まで持っていってください。

※現在コロナ対策で名前と都道府県記入を

 求められるので、ちゃんと記入してくださいね。

食券を渡したら音で用意完了を教えてくれる

タイマーもらうので、それを持って店内か

テラス席いずれか自分の好きな場所で

待っていましょう。

急にブザーがなるので少しビックリするかも(汗)

ちなみに私は勝頼とろろ昆布玉子そば•うどん注文

して外のテラス席を選びました(^^♪

玉子は半熟気味でとろろ昆布と混ぜて麺に

絡めて食べれば最高に美味しいです。

そば•うどんと書いてあるとおりに両方の麺が

入ってる感じで2度美味しい感じですよ。


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綺麗に完食してお腹いっぱいになったところで、

食器を渡し口に持っていき

いざ武田神社の方へ移動します!っとその前に

蕎麦•cafe由布姫さんの近くには

お土産処の桔梗信玄さんもあり、

信玄公生誕500年の記念に関連した

お土産も販売されているので、

こちらも注目でございます。

あとこちらでは兜をかぶって記念撮影できる

体験が500円でできるので旅の思い出に

是非体験してみてください。

 

この続きは信玄公に会いに甲府へ中編に続きます。

 

 

信玄公に会いに甲府へ前編     おわり

次回もお楽しみに(^_^)/

 

◆お土産処桔梗信玄さんや兜体験の写真を

 撮り忘れたので、次回訪れた時にまた

 追加して記事に載せたいと思います。
 

 

 

 

 

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初出掲載:2021年11月18日

のんびり散歩 神奈川県津久井城 後編

こんにちは〜(^^)/ユキスナです!

いよいよ津久井城散歩後編に突入しますよ。

今回は根小屋地区のパークセンターに

行ってから、北根小屋に向かい花の苑地に

戻りたいと思います。

 

 

 

パークセンターで津久井城の歴史を学ぶ

 

本城曲輪から根本登山道から降りていき

津久井城主内藤氏の居館跡があった

御屋敷広場に行ってみましょう。

御屋敷広場の上(馬場)の展望台からは

丹沢の景色が見れて綺麗ですよ。

ここからは三増合戦の伝承にもある

場所も望めます。

•石ヶ沢の槍小僧

 津久井城を牽制するのに人形に槍を持たせて

 並べたと伝わる場所

•信玄もろこし

 信玄公は津久井城の内藤勢を脅すため

 金原付近のもろこしの穂に提灯を取り付け

 たそうです。穂に結ばれた提灯の重さで

 首がもたげ茎には兵の血もついていました。

 それ以来牛の飼料用として作られる

 赤い穂のもろこしを信玄もろこしと

 言うそうです。

他にもこの地には信玄公に関係する伝承が

残されているみたいですね。

そしてこの地において武田軍の戦による

影響が大きかったのがよくわかります。

三増峠の戦いの時に武田軍は津久井城からの

援軍を阻止するため小幡信貞と加藤景忠が

津久井城の近くで牽制していました。

ここからの眺めは武田軍の動向がよく

わかります。

 

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ではその下の御屋敷跡に戻りますね。

ここは城主である内藤氏の屋敷があり

けっこう広い場所です。

いざ戦となった場合は上の詰城に登って

戦いに備えるのですね。

今は芝生が広がる静かな場所でありますが、

戦国時代はいつ敵が来るかわからない

なか緊張感を持って、生活していたで

あろう事が想像できます。


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さらに下の方に行くと牢屋の沢が見えてきます。

自然の堀になっていて御屋敷を守っていました。

江戸時代では陣屋の水牢としても使われており、

沢の二又になっているところに牢を作り罪人を

閉じ込めていたらしいです。




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牢屋の沢をこえて江戸時代に陣屋があった

場所に行ってみましょう。

陣屋とは裁判所、市役所などの役目をはたす

場所であり、先程の牢屋の沢の水牢も活用されて

たのがわかりますね。

 

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何気にこういうのが置いてあると、

この場所が甲斐国と相模国の国境近く

だということがわかって

面白いですよね。

 

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パークセンターに入る入口も風情があって

良いです♪
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パークセンターでは津久井の自然や歴史など

学べる場所があり、体験することもできます。


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展示スペースでは津久井城のジオラマ模型が

置いてあり、山城全体の様子がよくわかるように

なっています。

ジオラマの近くには津久井城の歴史や北条氏との

繋がりなど、よくわかる内容の資料が並べてあり

気軽に見ることができます。

鎧などのレプリカも展示されており、

刀や火縄銃などは手に持って重さを体感することが

できますよ(^_^)/

是非パークセンターに訪れた際は刀や火縄銃の

重さを体感し、戦国の世に思いを馳せてみましょう。



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それではパークセンターから北根小屋地区に

行って、花の苑地方面に戻りますね。

戻る途中にデッキ園路から津久井城の竪堀など

見やすくなってるので、是非よってみてください。

 

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園路から見ると竪堀の様子がよくわかりますね。

今は草木が多く見えにくいですが、私の想像では

しっかりとした強固な堀が頭に浮かんでます。

敵が攻めるには苦労しそうですね。

 

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根本登山道近くに案内板があるので現在地を

確認してみましょう。

城山散策絵図などのガイドマップも箱の中に

おいてあるので持ってない人はもらっていくと

便利ですよ。

 

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さらに進んでいくと道をショートカットできる

下に降りる階段があります。


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そちらに向かわず左手の方の道に行くと

展望台に行けるので、周り道になってしまいますが

展望台からの素敵な景色を見ていくのを

オススメします。


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展望台からは北根小屋地区と津久井湖が見えます。

湖畔を見ながらゆっくり飲み物飲んだり休憩

するには最適ですね。


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展望台近くの道からは本城曲輪のあたりが

よく見えます。

あそこからここまでよく歩いたなと

自分で自分をほめたりして^_^;

さらに進んでいくと湖畔展望園路があり

こちらにも展望台があります。


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ここまで来ると花の苑地までもう少しですよ(^_^)

園路沿いには綺麗なトイレなどもあり、

休めるベンチもあって嬉しいですね。

こういうところに来ると何気に座るところが

多くあるのはありがたいですよね。

歳を重ねると、そのありがたみが余計に

わかります。


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この近くには小網登山道があってこちらは

ちょっと険しい登山道になってるみたいです。

興味がある方は是非チャレンジしてみてください。

そして園路を歩いていくと山側に城山御林の

江川ヒノキの説明板が見えてきます。

江川ヒノキは江戸時代に森林保護の目的で

代官の江川太郎左衛門が植林したことから、

江川ヒノキと呼ばれるよになりました。

江戸時代から植林してくれたおかげで

現在でも元気に成長し人々を見守ってくれて

いるのですね。

 



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ここをすぎればもう花の苑地!!

登ったり下ったり色々大変でしたが、

何とか津久井城攻略です(^_^;)

まだ行けていない場所もありますが、

また機会があれば訪れて記事に追加していきたいと

思います。

 

 

まとめ

 

この津久井という場所は甲斐国と相模国との国境に

隣接した難しい立場の場所にあり

どちらの国にも影響をあたえる重要な

所だったというのは間違いないです。

武田軍と北条軍の三増合戦などの大戦を

乗り越えてきた津久井城は

豊臣秀吉の小田原合戦により

豊臣方の徳川の兵に取り囲まれ大規模合戦は

なかったにせよ、落城することになります。

小田原城に籠城していた津久井城主の内藤直行は

戦が終わったあと北条氏直とともに高野山に

行ったとされています。

城主不在の津久井城で戦っていた内藤綱秀は

その行方がしれないとされていますが、

最後まで北条方として戦った津久井衆の

意地を見せたのは間違いないと思います。

 

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↑北条の家紋の木の板は水の苑地の入口あたりに

 置いてありました。

 

 

津久井城のお土産!!

 

何とか津久井城のグッツを探していたのですが、

最初に観光センターに行ってみたら

御城印はあったのですが、これといった

津久井城のグッツがおいてなかったので、

パークセンターに行ってみたら

内藤氏の家紋が描かれた手拭いがあったので

購入しました(^_^)

ガイドブックも600円で販売されているので

より詳しく津久井城の事を知りたい方は

オススメです。


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◆津久井湖城山公園案内板参考

◆津久井湖城山公園ガイドブック参考

 

注、津久井城の登山道の中には急峻で危険な

  場所もあるので軽装備で登る方は

  注意が必要です。

  特に鷹射場から小倉方面の十兵衛山に

  行く途中の男坂女坂は軽装備では

  危険ですので注意してください。

 

 

のんびり散歩 神奈川県津久井城 後編   おわり

 

また次回の記事でお会いしましょう(^^)/

のんびり散歩 神奈川県津久井城 中編

皆様こんにちは(^^)/ユキスナです。

では津久井城のんびり散歩中編に行来ますよ〜

あくまでもユルユル歴史散歩なので、

へぇーこんなとこあるんだ!

行けたら行ってみたいな〜と思えるくらいに

軽い気持ちで見ていただけたら嬉しいです。

 

 

武田軍VS北条軍の三増峠の戦いで武田軍勝利!

 

前回は三増峠の戦いについて少し触れましたが、

三増峠の戦いとは甲斐の武田信玄が相模の北条の

城である小田原城を攻めたあと、城下に火を放ち

甲斐に引き上げる際におこった戦いです。

籠城している敵を誘い出すため

無理に攻めなかったのかもしれませんね。

(因みに上杉謙信が10万の軍勢でも落とせなかった

堅城でもあります。)

三増峠の戦いにおいて津久井城は北条方の城で

武田軍を背後から急襲する位置にあり、

滝山城北条氏照(子)、鉢形城の氏邦(子)の2万の軍を

援護するには重要な場所にありました。

小田原城からも氏康(父)と氏政(子)が出撃し

挟み撃ちできると画策していたのですが、

武田信玄はその動きをいち早く察知して、

別働隊の小幡信貞と加藤景忠らを津久井城に向かわせ

敵が援軍に向かうのを阻止しました。

この時津久井城にいた北条方の将は内藤景豊です。

結局山の高い位置に陣をはった武田軍は

優位な展開に持ち込み、逆に武田軍の有力武将である

山形昌景隊が挟み打つ形に持ち込み、北条軍に

勝利します。(山形昌景は赤備えでも有名です。)

北条軍の援軍である

氏康と氏政が到着する前に決着がついてしまったので、

両者は小田原城に引き返すことになります。

この戦いで両軍合わせて4000人もの死者を

出しました。普通なら追われる立場になると

怖い気持ちになりますが、さすが信玄公の軍略ですね。

 

 

飯縄曲輪からの本城曲輪まで

 

それでは飯縄曲輪群に行ってみましょう。

飯縄曲輪には飯縄権現を祀っている神社があり、

飯縄権現不動明王の化身で軍神として

戦国の武将に好かれていました。

後北条氏飯縄権現の信仰場所である高尾山を

庇護しており、津久井城でも軍神の力を

授かりたいと神社を創建したのだと思います。

元々この山は天狗山とも呼ばれてたらしく、

昔天狗でも住んでいたのかなと想像したりして

歴史ロマンを感じてみるのも楽しいですね。

 

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この飯縄曲輪の北側には津久井城のシンボル的

存在の樹齢900年の大杉があったのですが、

2013年の夏の落雷により焼失してしまいました(TT)

今では大杉の一部が見られます。


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飯縄曲輪を進んでいくと、太鼓曲輪

と本城曲輪の間にある堀切と引橋があった

場所があります。


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堀切は一度落ちたら這い上がるのに苦労しそうな

ほどの急峻な溝であり、攻めるのも大変です。

今では草木が生い茂って見通し悪いですが、

戦国時代では周りもよく見渡せて、今の堀よりも

若干深かったと思われます。

堀切には取り外し可能な引橋がかけられていて

敵が来たら、橋を収納して侵攻を防いでいたと

思われます。

本城曲輪の手前の太鼓曲輪はしゃもじ型に削られた

場所にあり、飯縄曲輪からの敵に備えるために

東側を土塁で固めてあります。

太鼓曲輪の東側にある細い道を下の方に

降りていくと、家老屋敷跡にも行きます。

 

↓本城曲輪に向かう途中の堀切です。

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本城曲輪の近くの昔で言えば、

米曲輪跡に案内板が設置されており、

当時の様子が伺えますね。

 

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米曲輪近くには土蔵跡地があり、

ここに戦に必要な物資が置かれていたのですかね。

引橋を渡らなければ土蔵にたどり着けないので、

本当に重要な場所だったのがわかりますね。

 

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それでは最後の砦である本城曲輪に

行ってみましょう。

本城曲輪のある場所は結構広く

より多くの兵士で守ることができます。

今では木々が周りに目立ちますが、見通しを

良くするため伐採して、頂上からも敵の様子が

よくわかるようにしていたんですね。


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本城曲輪には江戸時代に家臣の子孫が

建立した津久井古城記碑があります。

ちょっと影になって見えにくいですかね^_^;

 

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ここから少し降りた米曲輪辺りに案内板が

あるので、津久井城全体の位置と今いる場所を

確認しながら、次行く場所を効率よく周りましょう。


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その前に何だかんだ恒例になりつつある

トイレチェックです。

津久井城の米曲輪を花の苑地方向に

進んでいくと、トイレがあるので今のうちに

済ませておきましょう。

こういう所に行くと急にお手洗いに

行きたくなる事があるので、

助かることが多いです。

下に降りればトイレはあるのですが

間に合わない場合もありますからね^_^;

歳を重ねると余計にありがたいと思います。

春はこの場所からみる津久井湖の紅葉や桜も

素敵ですよ。

 

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戦国時代でも紅葉綺麗だったのかなと

思いつつ、本城曲輪から山をおりていき

根小屋地区のパークセンターに行ってみます(^_^)

下る途中には津久井城址碑もみられますよ。

私は山城に登るときは攻める気持ちで、

山城から降りるときは城方の兵の気持ちになり、

守りながら攻める気持ちでいつも訪れています。

皆様も戦国時代に思いを馳せて

歩いてると、また一つ違う発見をするかも

しれませんよ。


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津久井城案内板参考

 

❖馬込•小倉地区の十兵衛山方面の記事は

 また訪れたとき追記していきたいと思います。

 本城曲輪•米曲輪•太鼓曲輪なども新たな

 写真を載せていければ良いと思っています。

 

 

のんびり散歩 神奈川県津久井城 後編へつづく

のんびり散歩 神奈川県津久井城 前編

こんにちは!ユキスナです(^^)/
今回は神奈川県相模原市津久井湖城山公園に、 
のんびり散歩してきました。
その地域の歴史を知らない人でも、公園として
整備されてるので楽しめますよ。
津久井城の上まで登っていく方は、
トレッキングシューズのような足元が
滑らないような靴を、はいて行くほうが
良いです。


津久井城跡の烽火台跡(鐘撞堂)へ


公園アクセス
JR横浜線 相模線 京王線橋本駅へ行き、
橋本駅北口一番のりば神奈川中央交通バスで
花の苑地「三ヶ木(中野経由)」行きバス(01系統)
    「津久井湖観光センター前」下車1分
バス乗車時間17分でパスモ利用可320円です。

水の苑地(えんち)に行かれる方は城山高校前で
おりて徒歩3分、根小屋地区に行かれる方は
観光センター下車徒歩20分です。


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バスを降りたあと昼食をとりたいと思う方は、
近くにそば処花のさとさんがあるので
食べてみてください。
色々な種類のお蕎麦やうどんがあります。
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観光センターの中にはお土産やお弁当や
地元のパンなども売っており、景色の良い
外のテーブル付きベンチで食べるのも
美味しいですよ。
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花の苑地というだけあって公園内は
お花が綺麗に咲いております(^_^)
私は秋に行ったのですが他の季節も
訪れてみたくなりました。


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公園内は芝生広場があり家族連れで
ゆったりまったりするには良いですね♪


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それではお昼を青空の下で美味しく食べたら
いざ、城攻めに行きますよ!
観光センター裏の方にある築井公園橋を
渡り荒川登山道から攻略して行きたいと
思います。
登山口には津久井城の散策ガイドマップが
置かれているので、手にとって見て回るのが
良いですよ(^_^)/
⚠現在令和元年の台風被害により
荒川登山道は通行止めになっています。
新しい情報を随時チェックしてお出かけください
(因みに私は通行止めになる前に行来ました)
それでは軽く津久井城の事を説明しますと、
この津久井城は鎌倉時代三浦半島の一帯を
支配していた三浦一族が築城したとも
言われていますが、はっきりとしたことは
まだわかっていません。
戦国時代になってくると、津久井城主に
内藤氏の名前が出てきます。
元々は扇谷上杉氏や鎌倉公方足利氏の
国人衆として存在感を出してましたが、
後北条氏がどんどん勢力を増して
北相模まで迫ってきたことから、
内藤氏は後北条氏に従うことになります。
その後津久井城は小田原城の支城として、
隣接する甲斐武田氏の脅威に備えるため
国境付近を守る役目を担っていきます。


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道幅がだんだん狭くなってくるので、
足元気おつけて進んでください。

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歩いていてもわかりますが
戦国時代城攻めするのに
北側から急な斜面登って行こうとしても
かなり難儀しそうです(・・;


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花の苑地から行きやすい登山道では
ありますが、やはり地面も枯れ葉が
あったり石でデコボコしてる所もあり
足場が悪い部分もあるので、
トレッキングポールなどでサポートしながら
登って行くのが無理なく行けるし、
疲れも軽減でき下山の時も足が楽です。


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もうすでに私はこの時点で息が
上がってました(^_^;)
日頃からの運動不足を思いしらされます💦
戦国時代の足軽として攻めていたら
本丸にたどり着く前にへばって、
返り討ちになりますね。

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ここから少し岩場が多くなり足元が
危なくないように、鎖の手すりが
設置されているので滑らないように
十分気おつけて通ってください。
ここを通り過ぎると、津久井城の
水の手(井戸)の一つである宝ヶ池が
見えてきます(^_^)
他にも本城曲輪の北側と御屋敷跡にも
存在しており、津久井城は籠城の際は
水が不足するという不安はなかった
みたいですね。
ここの宝ヶ池は水が濁っていることから
城兵が刀を研いでいたともいわれてます。
やはり戦のときは水は必要不可欠ですからね
大事にされていたことが、良くわかります。
もし武田軍が攻めるならば金堀衆などで
水源を断とうとするのかなと、想像を
巡らしたりして楽しんでました。
(金堀衆は武田軍の工作部隊のような存在です)

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宝ヶ池を後にしてどんどん進んで行きましょう!
少し歩くと鷹射場と飯縄曲輪どちらに行くか
案内板が見えてきます。

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飯縄曲輪の方にある烽火台があったとされる
場所に行ってみましょう。
鐘撞堂(かねつきどう)ともいわれてる
らしいです。どちらも情報伝達の
手段としては最適ですね。
夜や雨の日は烽火台が使えないので、
鐘や法螺貝の音でしらせる
らしいです。
この鐘撞堂には伝承が残っており、
望郷の鐘(上野原の伝承)
戦国時代上野原の大倉地区の要害山に
鐘撞堂(かねつきどう)があって、
凄い美しい鐘の音が山々に
響いていたそうです。
後北条氏が上野原に攻め入った際
戦利品として津久井城に持ち帰ったは良いが
何度鐘をついても、
「ゴォーン オークラ オークラ」と
響いていたそうです。
故郷に帰りたかったんですかね(T_T)
何度ついてもかわらなかったので、
打ち砕いて新しくしたものの
また同じ音が響くので、
さすがに祟りを恐れ功雲寺附近の池に沈めて
しまったといいます。悲しいですね(T_T)
返してあげればよかったのに…
(上野原町紙より参照)

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↑三増峠方向
そして烽火台の方はというと津久井城は
相模平野や武蔵野台地や三増峠や八王子城
など四方を見渡せる最適な支城であり、
何かあれば烽火台ですぐに連絡を
とれる状態にありました。


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↑鷹射場からの景色

西側に烽火台が多いのはやはり、
隣国の甲斐武田家の動向に備えるためで
あります。
近隣の味方の山城とも連携して
敵が攻めてくるのを見張っていたんですね。
この地域での大きな戦といえば
三増峠の戦いですが、この続きは
中編に続きます〜(^^)/


のんびり散歩 神奈川県津久井城 前編 おわり


              中編につづく

武田勝頼公最後の地を訪れる

 

 

こんにちは(^_^)/歴史散策好きなユキスナです。

今回は武田信玄公の四男であり、武田家を継いだ

武田勝頼公の最後の地を訪れるべく、山梨県

田野地区にある景徳院へ行ってまいりました。

 

 

 

甲斐大和駅から景徳院へ

 

まずは新宿駅から特急列車で大月駅まで行き

そこから中央線に乗り換えて甲斐大和駅まで

行きました。甲斐大和の駅は無人駅であります。

新宿~大月まで特急列車の指定席で片道2362円で

約1時間。大月〜甲斐大和駅までは330円18分です。

甲府駅から甲斐大和駅までは506円32分です。

 

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この駅は登山をする方々が多く利用する駅でもあり

私が訪れたときも大勢降りて行きました。

駅出て南の方に行くと甲州街道沿いにコンビニが

あるので、食べ物や飲み物買っておいた方が

良いと思います(^^)/

散策するときはトイレの場所気になったり

しますよね。駅やコンビニや銅像近くのトイレ

行き忘れた時は景徳院の近くにもトイレがあるので

安心してください。

では観光案内図を見て、景徳院の場所を確認

したらいざ出発でございます!


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その前に駅近くにある勝頼公の銅像に挨拶してから

行きましょう。
右手に軍配を持った姿は勇ましく、

戦国の世を一生懸命生き抜いた

立派な武将だということがわかりますね。f:id:yuki-snu2:20210918222251j:image

それでは武田家終焉の地である田野の地へ

甲州街道沿いを歩いて訪れていきます。

どういう想いで勝頼公はこの道を歩いていたのか

考え、一歩一歩私も足を進めながら周りの

風景を目に焼きつけては、歴史の真実の風を

肌で感じてみるのも良いですよね。

甲州街道沿いの道は狭いので、人とすれ違う時は

気おつけたほうが良いですよ。

景徳院に向かう途中に分かれ道があるので、

そこを左の方の道を進みましょう。

左の道は大菩薩初鹿野線で景徳院まで続いてます。

そのまま甲州街道沿いに行くと道の駅甲斐大和

ありますが途中短いトンネルがあり、

歩いて行けないことはないですが道が狭いので

車には十分注意してください。


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分かれ道からしばらく歩くと山梨では有名な

ハッピードリンクショップが見えてきます。

歩き疲れて喉乾いたところにこの自販機の数は

色々選べて嬉しいですね。

まさにハッピーな気持ち(^^♪

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そしていよいよ四郎作古戦場跡地に到着。

ここでは忠義の武士小宮山内膳友晴さんが

登場します。

小宮山内膳さんは使番十二人衆にも選ばれた

事もあり、武田家の軍政にも関わっている

人物です。天正3年の長篠の戦いの後

中枢を重臣たちが中心になって

武田家を支えていましたが、小宮山内膳さんは

臆すことなく自分の意見を発言しました。

しかし他の重臣達はそれを快く思わず、

小宮山内膳さんを蟄居(家の中で謹慎)に追い込んで

しまいました。

その間にも織田軍が甲斐国に侵攻し、

武田家そして勝頼公の立場は

どんどん家臣の離反などにより追い込まれ、

とうとう甲府を追われ岩殿城に向かう事に

なるのですが土壇場で小山田信茂にも

裏切られて、いよいよ打つ手なしとなった

ところに主君の危急を知った小宮山内膳さんが、

急いで馬に乗って決戦前夜に駆けつけたのです。

友晴「譜代の臣でありながら武田家の最後の

戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの

羞恥であり、武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い

最後の戦いの御楯となり高恩の万分の一にも

報いたい」と言い、

勝頼公も「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳のいたす

ところであった」と言い許しました。

このあとこの場所に陣を敷き迫りくる織田軍と

獅子奮迅の死闘を繰り広げ戦うのです。

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しかし織田の先鋒滝川一益や河尻秀隆の軍

4000千に攻め込まれ

さすがに多勢に無勢どんどん押し込まれて

日川まで後退して行くことになります。



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日川を挟み鳥居畑古戦場あたりで織田軍を何回も

少数ながらも撃退して、下を流れる日川を兵士の

血で染めたと言いますが、

ほとんど織田兵士であり、武田軍の強さ

最後まで敵に見せつけました。

最強武田軍の強さは健在であり、もしちゃんとした

兵力があれば織田徳川に負けないと私は思いました。

武田軍や勝頼公が好きな私にとって無念な気持ちが

強い場所でした(-_-;)

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鳥居畑古戦場を少し進むと姫ケ淵の慰霊碑が

見えてきます。

勝頼公に嫁いできた北条夫人の身の回りの

世話をする従者達16人が、日川に飛び込み

殉死したといいます。

大きな石のレリーフにはその光景が描かれていて、

飛び込んだ場所はもう少し上流だとも言われています。

敵方に捕まればどうなるかわかっていたので、

必死の覚悟で川に飛び込むしかない状況を思うと

切なく悲しくなりますね。
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景徳院はもう目の前ですが、先に土屋惣蔵さんが

奮戦した日川の上流に向かいたいと思います。

 

 

忠義の家臣土屋惣蔵の片手千人切り

 

勝頼公一行は最初に武田家縁の天目山

栖雲寺(せいうんじ)に向かってましたが、

敵は深沢口(甲州市勝沼町)から先回りして

勝頼公一行の行く手を阻みました。

これ以上進むことが出来なくなった勝頼公一行は

田野の郷に引き返すことになります。
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日川沿いを勝頼公一行が歩いて進んで行く

気持ちを体感すべく私も歩いて行きましたが、

当時の山道は今の道より狭く整備されてないので

同行していた従者の女性や北条夫人には

辛いものがあったと思います。



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途中に竜門峡があり竜門橋から天目地区

まで日川を両岸にまたがり延長2.4kmの

ハイキングコースがあるそうです。

そして竜門峡から少し歩いて行くと

土屋惣蔵(昌恒)さんの片手千人切りの場所があります。

土屋昌恒さんは武田家の家臣で譜代家老衆の

一人であり、長篠の戦いで討ち死にした

武田二十四将土屋昌続さんの実の弟であります。

実の父は金丸筑前守ですが、旧今川家臣で

武田海賊衆でもある土屋貞綱の養子になり、

土屋の姓に変わりました。

土屋昌恒さんの子(土屋忠直)は後に徳川家康

気に入られ上総国久留里藩主になります。

武田家に最後まで忠誠を尽くした父昌恒さんの

忠義の姿は敵味方を魅了したのですね。

その土屋昌恒さんが最後に使えたのが勝頼公!!

勝頼公一行が織田軍に行く手を遮られ

田野の郷に戻るまで敵を引きつけるために

土屋昌恒さんが狭い道を選びそこで片手に

藤蔓を掴んでもう一方の手で刀を掴み

寄せ来る敵を片っ端から崖下の日川に落とし、

下の日川が三日間血で染まったといいます。

鬼神の如く刀を振るい敵の進軍を抑え何十人も

切伏せた事から「片手千人切り」の異名が

ついたんだと思います。

この場所まで景徳院から歩いて24分くらい

かかりました。
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下の日川を覗いて見るとかなりの急な断崖!!

戦国時代の当時の道はかなり狭いと思うので、

下に落とされたら命はありません。

この場所で蔓に掴まって刀を振り回してたと思うと、

敵の立場だと恐ろしいと思います。
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このあと土屋昌恒さんは奮戦しますが、さすがに

動きまわれば体力もなくなり、最後は主君の

いる場所で死にたいと思い勝頼公のいる

田野の郷まで戻ることになります。

私も歩いて最後の地景徳院まで戻りますよ!

 

景徳院の勝頼公墓所にお墓参り


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景徳院の近くには勝頼公と信勝公の親子の首が

洗われたという池があります。

首実検の前に誰の首か確かめてよく洗い髪をとかし

化粧を施すらしいです。身分によっては乗せて運ぶ

台も変わってきて、首実検をするときは武装した

兵士が側で待機して大将首の奪還を阻止したり、

これは迷信でしょうが首が飛んでくるとも

言われていました。


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では景徳院の中に入って行きましょう!

景徳院は武田勝頼公一行を供養するために

徳川家康が建立したお寺です。

武田家が滅んだ後に武田の家臣は

このお寺の建立を知り、徳川家康公に

いっそう忠義を尽くしたとも言われています。

山門まで歩いて来る途中神聖な空気を体中

感じ、身が引き締まる思いでした。

 

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この山門の手前を右に曲がって進んでいくと

勝頼公(37)、信勝公(16)、北条夫人(19)の

辞世の句があります。

最後の最後まで裏切りにあった勝頼公でしたが、

北条夫人だけは何とか実家のある小田原に

逃がそうとしますが、北条夫人はそれを拒否し

ひたすら愛する夫と共に最後をとげたいと

付従い、見事な最後をとげる事になります。

私はこのお話を聞いたとき勝頼公が

いかに日頃から優しい人だったのか、

その光景を思い浮かべると素晴らしい夫婦愛に

感動いたしました。

 

北条夫人の辞世の句

「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき

 思いに消える 露の玉の緒」

勝頼公の辞世の句

「おぼろなる 月もほのかに雲かすみ

 晴れて行方の 西の山野の端」

信勝公の辞世の句

「あだに見よ 誰も嵐の桜花 咲き散るほどの

 春の夜の夢」
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墓所には3基の石塔があり、
勝頼公のお墓は中央で右側が北条夫人で

左側が信勝公です。

ここまで無事来れたことに感謝して、お線香を

お供えしてご冥福をお祈りいたしました。


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お墓の前には甲将殿があり勝頼公や北条夫人や

信勝公の坐像がおいてあります。

立派な建物で歴史を感じました。


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甲将殿の前方には自害した生涯石があり、
生涯石の松の下で信勝公に楯無の鎧を着せ

武田家の当主を継がせました。

このあと自害し名門甲斐武田氏はここに滅亡

することになります。

もし織田と武田の血を受け継いだ信勝公が

何事もなく武田家の当主になっていたら、

どんな歴史になっていたかと思うと胸熱くなるものが

ありました。(信勝公の母親は美濃国衆の遠山直廉の

娘で織田信長の養女です。)

この生涯石近くの細い階段を中腹まで降りていくと

首のない没頭地蔵尊があり、ここには元々

武田勝頼公や北条夫人や信勝公の遺体が葬られて

いたらしいです。

景徳院の入り口近くからも上がって行く階段が

あるので、こちらからも行ってみてください。


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それでは勝頼公に別れを告げ甲斐大和の駅に

戻るとしましょう!

駅まで歩いて40分近くかかりますが、

頑張りましょうね。

途中の分かれ道で道の駅甲斐大和

行けるようでしたら、地元で採れたウラジロを使った

ウラジロまんじゅうなど売っているので、

買ってみると良いですよ(^^)/美味しいですし、

よもぎ餅みたいで食べやすいです。

ここで昼食をとっていくのも良いですね。

何とか甲斐大和駅近くに戻ってみると鉄の柵に

描かれた武者の絵を発見!

出発するとき見忘れてました(^_^;)

地元の歴史が身近に感じられる

工夫がされていて、勝頼公が地元の人達に

愛されているのがよくわかりますね。


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4月後半には武田勝頼公祭りも行われていたり

勝頼公の遺徳を偲びその霊をなぐさめて、

武田家の最後の歴史を伝えるお祭りに

なっています。

お祭りには一般公募で選ばれた鎧兜を身に着けた

勇ましい武者の行列が見れるので、オススメです!

会場では地域の特産品を使った出店なども

あるので、食べながらその場の雰囲気を体験し

楽しみながら参加しましょう。

会場にはパイプ椅子もあるので、ゆっくり

座りながら見ることもできますよ。

私が一つアドバイスするとしたら4月ですが

日の光がけっこう強かったりするので、

帽子や暑さ対策もした方が良いかもしれません(^^)


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武田勝頼公祭りプログラム表参照

 

毎年勝頼公とその一族の供養も兼ねて

勝頼公祭りに来たり、景徳院に行き

お線香を供える事でより武田の歴史を知り、

勝頼公が好きになっていくのがわかります。

また来年も無事来れることを祈り、

甲斐大和の地を後にしたいと思います(^_^)



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↑因みに自販機で買った冷やし甘酒飲んでます!

 暑い日は熱中症対策で良いですよ〜

 

武田勝頼公最後の地を訪れる      おわり

次回までごきげんよう

生誕500年!武田信玄公の生涯展

 

 

こんちには(^_^)/毎度おなじみのユキスナです。

今回は私の尊敬する武将である甲斐の虎

武田信玄公が生きてきた歴史がわかる

[武田信玄の生涯展]を見るべく山梨県

山梨県立博物館に行って来たことを

記事にしていきたいと思います。

 

 

ゆったり街歩きしながらまったり

 

私は今回新宿駅から石和温泉駅まで

特急あずさで1時間半乗って移動しました。

都心からも近いですので、気軽に来れますね。


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では石和温泉駅から山梨県立博物館に行く前に

駅近くの足湯に寄っていきたいと思います。

初めて足湯入りますが、駅近くにあるのは

嬉しいですね。バス停も側にあるのでバスが

来るまで足湯に入りながらゆったり待つことが

できます(^^♪しかも無料!!

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足湯に入れる時間は

午前10時〜午後6時(4月〜9月)

午前10時〜午後5時(10月〜3月)

あまり早い時間に行ってもお湯が溜まって

ないので、そこは注意してください(^.^;


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階段の手すりや段差解消されていたり

車椅子スロープも有るので車椅子の方も

安心して入れます。

足湯に入ったあと足を拭くのにタオルが

必要な場合は石和温泉駅観光案内所で

タオルが有料で販売されていますよ。

効能は神経痛、筋肉痛、打ち身、慢性消化器病

   冷え性疲労回復、痛風

因みに石和温泉の歴史を少し見てみると

石和温泉の地域は天正10年の(1582年)に

織田信長の手勢によって、石和八幡神社、観音寺、

八田屋敷(武田家の家臣の八田家)ともに焼失

してしまいます。

武田家の滅亡により大事な歴史的遺産が

織田軍の手によって焼失してしまったのは

悲しいですね。
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それでは山梨県立博物館に向けて

出発しましょう(^^)/

駅前通りを南に進んで行きましょう。


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途中に笛を吹いている銅像があったので

調べてみたら、笛吹権三郎さんだとわかりました。

笛吹権三郎さんは上釜口の芹沢というところに

母親と二人暮らしをしてました。

ある日大雨が降って小西川が氾濫し、権三郎と

母親は濁流に飲み込まれてしまいます。

若い権三郎は何とか助かりますが、母親が

流されて見つけられなかったそうです。

権三郎は得意の笛の音で母親に聞こえるように

吹き続けましたが、結局見つけられずとうとう

権三郎自身も探してる途中で疲れで足を滑らせ

力尽きてしまったのです。

その後にこの川では綺麗な笛の音が

聴こえてくることから、笛吹川と呼ばれる

事になったそうです。

凄いお母さん想いの優しい人だったんですね。

普段気に留めないような川の名前の由来など

足を止めてじっくり眺めたり、調べたりして

知ることは本当に素晴らしい事だと思いました。

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では権三郎さんに別れを告げ目的地に向け足を

進めて行きましょう。

少し進んで行くと石和温泉停車場線

国道411号が見えてきますから、

信号を渡って左に曲がって歩いて行きます。

国道沿いを歩いてると駅前で見た足湯と

同じタイプの建物を発見!

こんな所にもあったのかと驚きました。

バスに乗って行ってたらわからなかったな^_^;

この石和小林公園の名前にもなっている

銅像の小林中(こばやしあたる)は日本開発銀行

初代総裁も務め財界四天王と呼ばれるほどの

お偉い方で、この石和町の名誉町民にもなってる

地元の有名人らしいです。

この場所は旧邸宅だということで銅像

あるのですね。なるほど(・o・)


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この場所の足湯はお湯が程よく溜まっていて、

気持ち良さそう。駅前の方は時間が早かったので

お湯が溜まってなくて無念でしたが、ここで挽回

できそうw

こちらの足湯は歩いて足ツボマッサージができる

道があり、イタ気持ち良い感じが素晴らしい〜♪

バス停も近くにあり待つのにも良いし

散歩につかれたら足湯最高すぎます✨


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いつまでもいたい気持ちですが名残惜しくも

時間がないので、出発したいと思います。

少し進んで行くと鵜飼(うかい)橋通りが

見えてくるので

右に曲がって笛吹川に架かる鵜飼(うかい)橋を

渡っていきます。

この川が笛吹川なのかと権三郎さんの事

思い出しながら、川の流れが笛の音に聴こえないか

耳を澄ませながら渡っていきました(^^)

そしてここからしばらく歩いて行き、

甲州街道勝沼バイパスを通り過ぎたところに

いよいよ目的地の山梨県立博物館

見えてきました!!

 

山梨県立博物館で信玄の生涯展を堪能

 

信玄公がお出迎えしてくれました〜
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初めて訪れましたが立派な建物ですね。

武田菱の旗や孫氏の旗が掲げられていて

入る前から興奮します!


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検温とアルコール消毒をきちん済ませて

入館しますね。

山梨県立博物館は常設展示観覧料は一般で

520円なのですが、武田信玄の生涯展は

1000円でした。

展示場入口では信玄公と一緒に写真撮影

できたり嬉しさいっぱいです。
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大きな武田二十四将図などもあり入る前から

ドキドキでした。

その他にもTKD総選挙(武田の武将)などもあり、

私は山本勘助さんに一票入れてきました(^^)w

後で知ったのですが、結果は

1.山本勘助 2.武田勝頼 3.武田信繁

1位は私が推していた山本勘助さんでした!!

嬉しい〜(^o^)素晴らしい👏

TKDお城総選挙(武田のお城)の方は

1.高遠城 2.要害山城 3.海津城でした!

因みに私の推していた岩殿城は4位でした。

そしていよいよ中に入って行きますよ。
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1.誕生から家督相続

初めに武田信虎公の像(信玄公の父親)

大井夫人の像(信玄公の母親)を

見ながら、信玄公の幼少期に使われていた

木馬の像?小さい子供が跨って遊んでいたであろう

玩具のようなものですね。

信玄公がこれに乗って遊んでいたと思うと、

凄く身近な存在に感じて親しみがわきました。

この頃武田家と今川家は激しく争っていて、

その争いの中避難していた大井夫人が要害山城で

勝千代を生みました。後の信玄公です。

この後信虎公は今川軍を甲斐の国から一掃して

事実上甲斐国統一を成し遂げました。

展示には貴重な信虎公の発給文書などもあり

食い入るように見ていました。

その他にも信玄公が父信虎公を駿河

追放した際に今川義元公が出した書状など

見ることができ感激でございます。

武田家の本拠甲府の古府中絵図など

信玄公の御館形図など城下町遺跡からの出土品も

見れました。

その当時使われていたお皿とか見ると、

色々想像しちゃいました(^^)

2.初めての敗戦

甲州法度之次第の条文など、テレビや書籍で

見たことありますが、実際に見ることなど

なかなか無いことなので、じっくり見てました。

信玄公、生涯初の敗戦

上田原の合戦で村上義清と対峙した信玄公は

重臣板垣信方甘利虎泰ら優秀な家臣を

失い、信玄公も手傷を負ってしまった程の

敗戦でありその戦の結果を村上義清が書状として

上野衆の小林氏に出して、味方につくように

要請した書状も展示されていました。

敗戦直後に武運長久のため作られた狛犬

像があったのですが、どことなく顔が

優しい感じがしてほっこりしました。

私個人的に山本管助が好きなので、

信玄公が山本管助に伊那郡での

働きを賞して百貫文の恩賞を与えることを伝える

書状が見れて良かったと思います。

武田軍の資金である金が遺跡から出土したものなど

その当時の輝きを失うことなく、現在でも

魅了するものであったのが見てよくわかりました。

↓密にならないように矢印通り移動でございます✨
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3.川中島の戦い

信濃支配の最大の障壁である信玄公

最大のライバル!!越後の龍上杉謙信

一般的に知られている法体で黒い頭巾を被り

軍配を持っている肖像画など拝見できました。

上杉謙信川中島の戦いで信玄公と戦い

小田原攻めでは大規模な軍事行動を行ったり

私的な戦いを好まず義の戦を良しとした

戦国武将としては珍しいタイプの武将ですが、

そうした人間性が多くの人々を魅了するのも

よくわかる展示内容でした。

書状には川中島の合戦の初期の頃の物や

第四次合戦に至るまでの物が残っており、

その時の緊迫した状況などが伝わってきます。

川中島合戦の一騎打ちの合戦屏風は有名ですよね。

その他にも武田家伝来の家宝楯無鎧の復元模造や

信玄堤絵図など貴重な資料が見れて良かったです。

信玄堤がその地域の人達を守り、地域の住民も

信玄堤をメンテナンスするなど、無くてはならない

存在だということがよくわかる内容でした。

4.上野·駿河

川中島の合戦以降信玄公は上野に侵攻して

行くことになります。

武田家と北条家は協力し関東に出兵して

領土を拡大させていきますが、やはり

ここでも上杉謙信が大きく立ちはだかります。

謙信が北条方の下野祇園城の小山秀綱を攻めて

降伏させたのを知った北条氏康は、

信玄公が松山城攻略後に帰国して油断したから

城が落とされたのだと言ったと言います。しかし

信玄公は書状で「関東の小山が落ちたのは関東の

武士が不甲斐ないからだと北条氏康に伝えました。」

書状の内容は信玄公がその時の関東武士を

どう評価していたのかわかる貴重な資料です。

永禄八年の十月頃発覚した嫡男の義信による

クーデター事件に関する新しい資料も

興味深かかったですね。

高野山の武田家菩提所の宿坊の成慶院から

供養帳が見つかったことで、

クーデターに加わっていたとされる

飯富虎昌さんの命日と成敗された時期が一致

するのがわかって、信憑性が増したのが

わかりました。

いよいよ信玄公は駿河に侵攻!

駿河駿府を占領したあとに家康に出した

書状は感謝の気持ちも込めながら、懸川城を

早く落とすようにとの催促でした。

こうした事態をよく思わない北条家は

越後と同盟を結んで武田包囲網を築いていきます。

武田家も勝頼と信長の養女と婚儀を結び

足利義昭に依頼して上杉との一時的和睦など

色々準備していたのがわかる書状など

この目で見ることができました。

そして信玄公は直接対決すべく小田原攻めに

取り掛かることになります。

武蔵国から侵攻し北条の諸城を

攻撃したのち南下して、小田原を包囲するも

大規模攻撃はせず、そのまま撤退します。

しかし北条軍はこれを見逃さず追い打ちをかけ

三増峠で武田軍と激突することになります。

それが三増合戦です。三増合戦図などで見ると

どこに布陣していたのかがよくわかります。

結果は武田軍の勝利で終わりました。

5.天下人との戦い·信玄の死去

ここからはいよいよ二人の天下人との戦いが

始まるのです。

北条家との戦は氏康が亡くなり、同盟が復活

するのですが今川家を打倒するため手を組んだ

家康との関係が、遠江の所領を巡って争いになり

ここに織田徳川VS武田の戦が勃発します。

まずこのコーナーに来て一番見たかったのが、

信玄公の菩提寺である恵林寺に保管されている

不動明王坐像!!信玄公をモデルにして

作られていると言われており、信玄公の髪の毛が

像の髪の彩色に使われているのには驚きました。

不動明王のお顔は厳しく見えますが

人々を優しく見守る覚悟ある姿であり、

まさに信玄公と重なる部分があり感動しました。

信玄公も川の氾濫や度重なる飢饉から

人々を守りたいという気持ちだったので、

信玄公も不動明王様を大事になさって

いたのかもしれませんね。

他にも貴重な仏像、勝軍地蔵騎馬像など

見れて感激でした。

そして戦は武田の西上作戦により徳川と

遠州三方ヶ原合戦に突入していきます。

この当時の書状に織田信長の武田家との断行が

書かれたものもありました。

武田軍は徳川の領地三河浜松城近くまで

行きますが、素通りして先に進んで行ったと

言われています。その様子を見て徳川家康

このまま何もせず行かせれば、国衆の離反を

招くと恐れ武田軍に勝負を挑むことに

なりますが、予想通りに武田軍が反転して

徳川軍に襲いかかる事になり、武田軍の

圧勝となりました。

その時徳川家康は急いで浜松城に逃げ帰り

あまりの恐怖で馬上で脱糞してしまうという

屈辱をあじわいます。

その時のことを忘れないように「しかみ像」を

描かせたとも言われています。

複製のものでしたが見れました!良かったです。

ここまでは何とか進軍してきた武田軍も

信玄公の死去により、やむなく甲斐信濃

撤退することになります。

信玄公の死は3年間は隠しておき白紙の花押

だけ用意して、知られぬように署名を作成

して生きているようにみせていましたが、

やはり急に進軍を止めて甲斐に戻ったことは

関係各国が疑り、死亡したのではないかと

様々な書状が飛び交う事態になった事は、

資料を見てもわかりました。

その後武田家の家督を継いだ武田勝頼公は

奪われた長篠城を取り返すべく織田徳川と

戦う事になりますが、重臣の多くを失う

大敗をしてしまいます。

そこから急速に武田家の力は衰えていき、

天正10年(1582)3月11日にとうとう武田家は

山梨郡の田野で武田勝頼公が自刃して

滅亡してしまいます。

私個人の感想ですが、

ただ滅亡したという話ではなく

裏切りや離反が多かった時に

最後まで勝頼公に付き従った武田家臣の中でも

土屋惣蔵さんの奮戦や謹慎になっていたにも

かかわらず、主の危機に参上した小宮山内膳さんの

ような忠義の心を持った人達の事も決して忘れては

ならないと思いました。

(武田勝頼公最後の戦いの記事はまた次回

書きたいと思います。)‚

 

6.信玄の遺産

信玄公の死後重臣であった高坂弾正

「甲陽軍艦」の作成に取り掛かることになり

高坂弾正が死去したあとは、甥の春日惣次郎が

完成させます。

甲陽軍艦は後の世の武士に多くの影響を与え

人気があったのは本当に凄い事だと思いますね。

武田家が滅亡したあとに徳川家の家臣となった

柳沢氏には後の徳川綱吉側用人として使えた

柳沢吉保がいますが、柳沢吉保は信玄公を

尊敬しており、甲斐国恵林寺を整備したり

武田家再興のために尽力しました。

柳沢吉保像も立派でした。

柳沢吉保といえば赤穂浪士の討ち入りで

有名であり、良い印象がなかったのですが

一変目線を変えて柳沢吉保という人を

調べていくと、武田信玄公を尊敬していたり

武田家のために一生懸命に尽力してきた姿は

本当に素晴らしい功績だと思います。

偏った目線で見るのではなく広い視野で

その人物の実像を捉えることは、

本当の意味での歴史を知るということでは

ないでしょうか。

後の世の人々は信玄公だけではなく、

その武田家臣団にも尊敬の念を持ち

武田二十四将図は大変人気があったと

思われます。

明治頃から信玄公への人々の想いから

武田神社の創建が言われてきましたが、

とうとう大正時代に念願の神社本殿が

完成され、人々は大いに喜びました。

その後信玄公の銅像甲府駅前に設置

したり、信玄公を称えるために信玄公祭りも

開催される事となり、本当に山梨の人々の

中で信玄公という存在は大きなもので、

尊敬され愛される存在だということが

よくわかる資料が多かったです。

この信玄公生誕500年の記念の年に

山梨県立博物館に来れたことは

私の人生の良い経験となり、

この貴重な時間は宝物になりました。

このような展示をしてくださった

山梨県立博物館の方々や関係者様に

本当に感謝を申し上げたいです。m(_ _)m

このような貴重な展示物を拝見できる

山梨県立博物館に皆様も訪れてみては

いかがでしょうか(^^)/

                                                                  

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信玄公の生涯展お土産

 

山梨県立博物館の期間限定信玄公お土産コーナーで

購入した武田信玄の生涯展の内容がわかる本も

買えて満足でございます。

紙製のクリップや木製のキーホルダーも

素晴らしいです。

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  生誕500年! 武田信玄公の生涯展   おわり