こんにちは(^_^)/やっと後編にきました。
前回は主郭から西曲輪まで巡って行きましたが、
今回は大手門近くにある三日月堀があったとされる
場所や、御隠居曲輪や稲荷曲輪や味噌曲輪跡地に
行ってみたいと思います。
大手門近くに眠る武田築城技術の丸馬出し
大手門近くで発見された武田築城技術で
造られた三日月堀は、三日月のように丸くおおう
形をした堀であり、内側に土塁がある丸馬出しです。
全長30m、幅4〜5mで深さ2.5mです。
この武田式の丸馬出しは信濃や西上野や駿河など
武田の支配領地の城によく見られたり、
勝頼公が韮崎に築城した新府城にも用いられて
いました。
特に信濃の上田に拠点を置く真田氏は、
この丸馬出しよく活用していて、
大阪の陣では真田信繁(幸村)が真田丸を造るときに
防御の一つとして取り入れられました。
現在の大手石塁は武田氏滅亡後豊臣時代か
徳川時代に三日月堀の上に造られたものです。
再現されているのが武田氏の
丸馬出しではないですが、だいたい当時の様子が
わかって良いですね。
大手石塁の南側には厩(うまや)跡などもあり、
当時の様子が伺える貴重な史跡となっております。
戦国時代の馬は現在のサラブレットのような
馬ではなく、ポニーのような小さな馬で
パワーがありました。
武田軍がよく乗っていたのが甲斐馬や木曽馬であり、
山岳戦を得意とする武田軍にとっては最も最適な
馬でした。
当時の人の身長もそれほど高くなかったので、
小さな馬でもちょうどよかったのかも知れませんね。
(例、木曽馬は140数cm.人は157cm)
武田軍といえば長篠の戦いでも有名な騎馬隊ですが、
実際の騎馬隊はそれほど多くはなかったみたいです。
機動力を活かした戦術で戦場を的確に移動し
敵に攻撃を仕掛けて、戦を有利な状況に
していくのが得意だったから敵にも恐れられたと
思います。特に信玄公の指示が各部隊長にきちんと
伝わって動けたからこそ武田軍の騎馬は強いという
印象が強かったのかと思いますね。
大手東側には総堀と土塁で囲まれた東曲輪があり、
東曲輪に入る部分は2箇所あり北側と南側に
土橋があり、北側の方は虎口があり、
南側の下の方には門があります。
現在の総堀の部分には蓮が咲いていて
7月中旬頃には見頃になっています。
蓮池の愛称で親しまれてるみたいですね(^_^)
土塁の上に登ることができるので、
東側曲輪全体を見回すことができます。
やはり大手門の防御は固く北と南側の土橋から
侵攻しても、入ってすぐに三日月堀の馬出しが
目の前に現れて、立ち止まったところに
弓矢や鉄砲で攻撃されてしまう。
敵がひるんだすきに馬出しから兵を出撃させると
一網打尽にできるし、なかなか突破できないはずです。
東曲輪後方の龍華池展望見晴台からは
東曲輪全体の様子と信玄公の愛した甲府の
城下町の様子が良くわかりますね。
展望見晴台まで上がっていくのに階段が
けっこう急なので、気おつけてくださいね。
◆案内板参照
躑躅ヶ崎館北側守備の曲輪
では今度は東側曲輪から躑躅ヶ崎館の北側にある
曲輪跡に向かいたいと思います。
大手門に入らず右側の道を進んでいくと、
まず最初に御隠居曲輪が現れます。
御隠居曲輪には信玄公の母親である大井夫人が
住んでいました。
夫である信虎公が駿河に追放された後は
ここでゆっくり過ごしていたのですかね。
この御隠居曲輪の西側には梅の木が咲いており、
当時の大井夫人も眺めていたのかなと
想像してました(^_^)
御隠居曲輪から主郭に行く途中には馬出しがあり、
その後ろには虎口も存在します。
御隠居曲輪の隣の方の曲輪は名前がわかって
いませんが、主郭の北側に位置してる以上
重要な場所なのは確かでしょう。
ここから少し下がると少し小さな稲荷曲輪が
存在します。
御隠居曲輪と味噌曲輪の前には馬出しがあるのに
名無しの曲輪の前にはないので稲荷曲輪を
築くことで、防御力を高めたのですかね。
↓稲荷曲輪に向かう階段
そして味噌曲輪の方に移動していくと発掘の跡地が
見えてきました。
味噌という名前の通り食糧や味噌などが貯蔵されて
いたのですかね。
敵が食料庫がここにあると知っていれば、
集中攻撃をするだろうと考えて、
馬出しを作り防御を厚くしたのだと思います。
味噌曲輪は他の曲輪より広いスペースがあり、
馬出しも存在しているので、ここに敵が
なだれ込んできても弓矢で集中攻撃をうけて
討ち取られてしまいます。
それでも何とか馬出しを突破してもその先に
西曲輪につながる北側虎口がありそこで
四方から攻撃を受け終わりです(¯―¯٥)
後方の山の向こうには要害山という山城も
あったので、挟み撃ちすることも可能ですね。
実際に味噌曲輪から西曲輪を通り豊臣時代に、
新しく造られた梅翁曲輪(ばいおう)に向かいます。
西曲輪の南虎口近くから見た主郭と西曲輪の間の
水堀でございます。
今は木が生い茂って見えにくいですが、
確認できますね。
↓左側が西曲輪で右側が主郭です。
梅翁曲輪近くには戦国期に埋葬された馬の骨が
出土した場所もあり、実際に発見された全身骨格の
馬の骨は信玄ミュージアムで見ることができますので
是非ご覧ください。
南虎口を出るところにも馬出しがあったと
思われ、西曲輪の南側の防御も万全です。
それでも武田氏が滅亡したあとに豊臣氏が、
より防御を高めるために拡張したのが
梅翁曲輪なのです。
梅翁曲輪の守りも固く周りを松木堀で囲み
敵が曲輪内に入ってきたら取り外し可能な
木橋をとり、防御をよりいっそう固めて
反撃の機会をうかがっていたんですね。
主郭〜西曲輪〜東曲輪〜御隠居曲輪〜稲荷曲輪
〜味噌曲輪〜梅翁曲輪と軽く見ていきましたが、
武田神社(躑躅ヶ崎館)は気軽に巡れる歴史的な
史跡であり、地域の人々に愛され親しまれている
場所なので、皆様も是非訪れてみては
いかがでしょうか(^_^)
お土産と美味しいスイーツ
武田神社を散策したあとに寄りたいお土産屋さんは
かぶと屋さんです。
武田神社の目の前にあり、信玄公の関連グッツや
山梨のお土産で有名な信玄餅も買えます。
中でも最近の私の一押しのお土産が
LEDで七色に光る信玄公の像です!
夜寝る前にお部屋に置いて眺めてみると、
癒やされますよ(^_^)
その他にも良いお土産が色々あるので、
是非行ってみてください!
そしてかぶと屋さんで食べられる信玄ソフトや
ぶどうソフトもオススメです。
信玄ソフトはきな粉と黒蜜がかかっていて、
とても美味しいですし、近くにベンチも
あるので座りながらゆっくり食べられます。
まとめ
これまで武田神社を巡ってきてわかったのが、
信玄公は民衆や家臣を大事にする事を第一に
考えており、立派な高い強固な城よりも
人と人との繋がりこそ最も強い城になると
信じて甲斐国を統治していたのがよくわかりました。
甲斐国に生涯お城を築かなかったのがその証ですね。
人々もそういう信玄公の姿を見ていたからこそ、
日々安心して暮らしてきたのだと思います。
信玄公も言っていたように人々こそ石垣や堀や土塁で
あり、他のどの城より強いのです。
どんなに強固な城を築いても人々の心が離れていき
支持されなければ、意味がないのです。
少なからず信玄公が存命の時は、敵に一度も
甲斐国への侵攻を許さなかったのは事実です。
今現在でも山梨県の人々の心の中に
信玄公が生き続けているのがよくわかって、
本当に訪れて良かったと思います。
それでは今回の歴史散策のお話はこれで
終わりにしたいと思います(^_^)/
長々とお付き合い下さりありがとうございます!
次回の記事に乞うご期待でございます。
信玄公に会いに武田神社へ 後編 おわり